エアリンガス
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| 設立 | 1936年4月15日 | |||
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| 運航開始 | 1936年5月27日 | |||
| ハブ空港 |
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| 焦点空港 |
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| マイレージサービス |
エアクラブ / アビオス (AerClub / Avios) | |||
| 会員ラウンジ |
エアリンガスラウンジ (Aer Lingus Lounge) | |||
| 航空連合 |
未加盟 元ワンワールドメンバー | |||
| 親会社 | インターナショナル・エアラインズ・グループ | |||
| 子会社 | エアリンガス・リージョナル | |||
| 保有機材数 | 52機 | |||
| 就航地 | 93都市 | |||
| スローガン | Smart Flies | |||
| 本拠地 |
ダブリン県フィンガル市コリンズタウン | |||
| 代表者 |
ショーン・ドイル(最高経営責任者) レイチェル・イザード(最高財務責任者) | |||
| 売上高 |
22億ユーロ (2018年現在) | |||
| 営業利益 |
3億500万ユーロ (2018年現在) | |||
| 純利益 |
2億550万ユーロ (2016年現在) | |||
| 従業員数 |
約4500名 (2020年現在) | |||
| 外部リンク | https://www.aerlingus.com | |||
エアリンガス(Aer Lingus)は、アイルランドの航空会社で、同国のフラッグ・キャリア。ダブリン県フィンガル市コリンズタウンに本社を置く。

アイルランドで最も長い国際線の歴史を持つ。
コーポレートスローガンは「Smart Flies」[1]。
概要
[編集]航空艦隊を意味するエアリンガス[注釈 1]は、アイルランド政府によって設立され、2006年から2015年にかけて民営化された。
会社の創設は1936年。6席のデ・ハビランド DH.84 ドラゴンを用いて運航を開始している。第二次世界大戦後はDC-3を用いてロンドン線などを運航し、1958年には、ロッキード L-1049 スーパーコンステレーションを用いて、シャノン空港 - ニューヨーク線を開設した。1970年代には2機のボーイング747を導入するなど、業務の拡大を図っている。50機以上の航空機を保有し、ヨーロッパ、カナダ、およびアメリカ合衆国へ運航している。
2007年3月31日に世界的な航空連合である「ワンワールド」を脱退し、現在はブリティッシュ・エアウェイズやイベリア航空などで構成される持株会社「インターナショナル・エアラインズ・グループ(IAG)」の子会社となっている。
従来の大手航空会社(FSC)と格安航空会社(LCC)のハイブリッド型を採用したビジネスモデルを導入しており、短距離路線と長距離路線のフライトで提供されるサービスに違いがあり、機内食は後者のみ無料提供される[2]。
いわゆるフラッグ・キャリアだが、民営化されて2006年10月にアイルランド証券取引所とロンドン証券取引所に株式上場した。しかし、IAG傘下入りに伴い、現在は上場廃止となっている。
垂直尾翼のマークはアイルランドの象徴とされるシャムロック(コールサインも"Shamrock"である)、コーポレートカラーの緑色はアイルランドのナショナルカラーである。
運航しているのはエアバスA320が主で、主にヨーロッパ内の路線に投入されているが、長距離用機材としてエアバスA330とエアバスA321LRを保有しており、北米路線を中心に運航している。
2020年の「世界で最も安全な航空会社リスト」では、19位にランクインした[3]。
イギリスのスカイトラックス社による航空会社の格付けで「ザ・ワールド・フォー・スター・エアラインズ(The World's 4-Star Airlines)」の認定を得ている[4]。
沿革
[編集]エアリンガスの設立
[編集]エアリンガスは資本金10万ポンドで、1936年4月15日に設立された。初代議長はショーン・オ・ウダーハだった[5]。親会社を通じて政府投資の法案を保留中、ブラックプールおよびウェスト・コースト・エア・サービスと提携し、エアリンガスと共同で「アイリッシュ・シー航空」という名称で運営した[6]。エアリンガス株式会社(アイルランド語: Aer Lingus Teoranta)の商号で、1936年5月22日に航空会社として登録された[7]。エアリンガスという名称は、コーク県のリチャード・F・オコナー測量士と航空愛好家によって提案された。

航空会社として登録されてから5日後の1936年5月27日、鷲を意味している「Iolar(イオラ)」という名称の6人乗りの複葉機のデ・ハビランドDH.84ドラゴン(EI-ABI)を使用し、初便運航がダブリンのバルドネル飛行場発、イギリスのブリストル(ウィットチャーチ)空港行きだった。
同年後半に、アイルランドを意味する「Éire(エール)」と呼ばれた、14人乗りの4発複葉機デ・ハビランド DH.86エクスプレスを当社の2機目として購入した[6]。この航空機はブリストル線をロンドン南部のクロイドンまで拡張することにより、ダブリン - ロンドン間の最初の路線を運航した。同時に、ダブリン - リバプール線はデ・ハビランド・ドラゴン84を運航していた。
エアリンガスは、航空輸送法(1936年)の下で国営航空会社として設立された。1937年にアイルランド政府は、エアリンガスとアイルランドの民間航空の財務責任を負う会社、エアリアンタ(のちのダブリン空港公団、DAA)を設立した[7]。1937年4月にエアリンガスは、エアリアンタを介してアイルランド政府が完全に所有するようになり、国有企業となった。
初代ゼネラルマネージャーは、ジェレミア・デンプシー博士(愛称はJF、ジェリー)であった。1936年(当時30歳)にケネディク・ローリー&カンパニー(KPMGの前身)から出向で入社した公認会計士であり、1937年にゼネラルマネージャーに任命された。30年後の1967年に60歳で退職した。
1938年に、デ・ハビランドDH.89ドラゴン・ラピードがデ・ハビランドDH.84 ドラゴン(イオラ)に取って代わり、2機目のデ・ハビランドDH.86エクスプレスを購入した。1939年には、エアリンガスの最初の金属製航空機、ロッキードL-14スーパーエレクトラを2機導入した。
1940年1月、ダブリン郊外のコリンズタウンに新しい空港が開業し、エアリンガスが同空港に運航を開始した。新しくダグラスDC-3を導入し、リバプールへの路線とシャノンへの国内路線を開始した。第二次世界大戦中は減便され、変動する治安状況に応じてリバプール、またはマンチェスター・バートン飛行場へ向かう路線を唯一運航していた。
第二次世界大戦後の拡大
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1945年11月9日にロンドンへの初就航により、定期便が再開され、エアリンガス航空機(当時は主にダグラスDC-3)が銀色と緑色に塗装されていた。また、最初の客室乗務員も募集した。
1946年に英アイルランド協定により、エアリンガスは英国海外航空(BOAC)と英国欧州航空(BEA)が40%保有する引き換えに、アイルランドからイギリスに特別な交通権を与えた。エアリンガスの成長により、1947年にビッカース ヴァイキングを7機導入したが、不経済的であることが判明し、間もなく売却された。

1947年にアイルランドからニューヨークへの大西洋横断路線を運航するために、アイルランド航空(アイルランド語: Aerlínte Éireann)が発足された。ロッキード L-749 コンステレーションを5機発注したが、政権交代と金融危機により、運航が阻止された。ジョン・A・コステロ次期首相(フィナ・ゲール党)は航空路線の熱心的な支持者ではなく、アイルランドのような小さな国から大西洋を飛ぶことは、小さな航空会社にとって、あまりに大げさな計画だと考えていた[8]。

1940年代後半から1950年代初頭にかけて、エアリンガスはマンチェスター経由でブリュッセル、アムステルダム、ローマへの路線を開始した。1951年にビッカース バイカウント700の初期購入者の1つになり、1954年4月に運航を開始した。1952年に貨物路線を拡大し、小さいブリストル フレイター170を導入した。同機体は、1957年まで使用されていた。
経済学者のパトリック・リンチ教授は、1954年にエアリンガスとエアリアンタの会長に任命され[9][10]、1975年まで役職に就いた[11]。 1956年にエアリンガスは新しいグリーントップ塗装を導入した。
最初の大西洋横断路線
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1958年4月28日にアイルランド航空(Aerlínte Éireann)は、シャノン発ニューヨーク行きの最初の大西洋横断路線を週2便で開始した。アメリカ合衆国の航空会社、シーボード&ウエスタン航空がリースしたロッキード L-1049 スーパーコンステレーション3機で、アイルランドの客室乗務員とともに運航していた。この取り決めは、アイルランド航空が「エアリンガス – アイルランド国際航空」に改名された1960年1月1日まで続いた。
1958年11月から1959年5月にかけて、エアリンガスはフォッカーF27を7機導入し、イギリスへの短距離路線で運航された。
1960年12月14日にジェット時代に突入し、ニューヨーク線と新規路線のボストン線で使用するボーイング720を3機導入した。
1963年にアビエーション・トレーダー・カーベア機を導入した。同航空機は、機体の機首から車を5台輸送することができた。RO-RO船の増加もあり、カーベア機はエアリンガスにとって不経済的であることが判明し、処分された。
大西洋横断路線で運航されているボーイング720を補足するために、1964年に最初の大型ボーイング707を導入し、1986年まで運航した。
ジェット機時代
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ヨーロッパ線でのジェット機への転換は、1965年にBAC1-11がダブリン/コーク - パリ線、マンチェスター経由のダブリン/コーク - アムステルダム線、コペンハーゲン線、デュッセルドルフ線、フランクフルト線を開始した時であった。同年に、垂直尾翼に緑色のシャムロックが描かれた新塗装を採用した。1966年にエアリアンタが保有する残りの会社の株式を財務大臣に譲渡した。
1966年にシャノン - モントリオール線、さらにシカゴ線の運航を開始した。1968年にイギリスの北アイルランドのベルファストからニューヨークへの路線が運航されたが、トラブル発生により、すぐに運休になった。エアリンガスは、ダブリン - ロンドン線の高い需要に対応するために、1969年にボーイング737を導入した。その後、エアリンガスは737便をヨーロッパのすべての路線で運航した。
1967年にゼネラルマネージャーのジェレミア・デンプシー博士は、退職前に2機のボーイング747型機の購入契約書に署名した。
1970年代
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1971年3月6日にエアリンガスはボーイング747を購入した2機中、1機を導入し、大西洋横断路線で運航した[12][13]。のちに、エアリンガスの所有機材の3分の1ほどを購入したが、大西洋を747で飛行するのは当初は利益がなかったため、すぐにリースされた。1974年に青色と緑色の2色の塗装がなされ、垂直尾翼に白いシャムロックが描かれた。
1977年に同社初の女性パイロット、グレイン・クロニンが採用された。スカンジナビア航空に次いで、ヨーロッパで2番目の採用者である[14]。
1979年9月には、ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世がボーイング747の特別仕様(EI-ASI・St. Patrick)をローマ - ダブリン間、シャノン - ボストン間で利用した。ローマ教皇がアリタリア-イタリア航空以外の航空会社を利用するのは、エアリンガスが初となった。

1980年代
[編集]1984年に子会社であるエアリンガス・コミューターを設立し、ダブリンからジェット機を必要としないアイルランドとイギリスの都市へ飛行することが可能になった。ショート330で試験飛行を行った後、ベルファストで製造されたショート360を5機、運航した。
1987年から独自のマイレージサービスのゴールドサークルクラブ(Gold Circle Club)を開始した(2016年にAerClubに移行)。
1987年から1989年にかけて、最初に導入したボーイング737に代わる新しい同型機を導入し、フォッカー50が6機追加導入され、エアリンガス・コミューターの機材に加わった。1990年にアイルランドの航空業界の規制緩和法が可決された後、エアリンガスは運航方針を再検討した。BAC1-11を引退し、新しいボーイング737を5機で置き換えた。1991年にショート360を置き換える、サーブ340Bが4機導入され、エアリンガス・コミューターの機材に加わった。1992年までには、ボーイング737-200のすべてが置き換えられ、第2世代のボーイング737-300/-400/-500の3種類すべてを運航する世界初の航空会社となった。しかし、ボーイング737-300は長らく運航されなかった。
1990年代
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1994年にエアリンガスはエアバスA330で、ダブリン - アメリカ間の直行便を開始し、同年5月に北大西洋路線で最初のA330-300 ETOPSで運航した。これにより、ボーイング747と