トリエステ
| トリエステ Trieste | |||||
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| 行政 | |||||
| 国 |
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| 州 |
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| 県/大都市 | トリエステ | ||||
| CAP(郵便番号) | 34100 | ||||
| 市外局番 | 040 | ||||
| ISTATコード | 032006 | ||||
| 識別コード | L424 | ||||
| 分離集落 | #行政区画参照 | ||||
| 隣接コムーネ | #隣接コムーネ参照 | ||||
| 公式サイト | リンク | ||||
| 人口 | |||||
| 人口 | 199032 人 (2023-01-01 [1]) | ||||
| 人口密度 | 2,355.7 人/km2 | ||||
| 文化 | |||||
| 住民の呼称 | triestini | ||||
| 守護聖人 |
トリエステの聖ジュスト (san Giusto) | ||||
| 祝祭日 | 11月3日 | ||||
| 地理 | |||||
| 座標 | 北緯45度38分10秒 東経13度48分15秒 / 北緯45.63611度 東経13.80417度座標: 北緯45度38分10秒 東経13度48分15秒 / 北緯45.63611度 東経13.80417度 | ||||
| 標高 | 2 (0 - 672)[2] m | ||||
| 面積 | 84.49 [3] km2 | ||||
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トリエステ(伊: Trieste (
音声ファイル))は、イタリア共和国北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約20万人の基礎自治体(コムーネ)。フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都であり、トリエステ自治県の県都でもある。アドリア海に面した港湾都市で、スロベニアとの国境に位置している[4]。
第一次世界大戦までは長らくオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあり、その重要都市として繁栄した。第一次世界大戦後にイタリア王国領となるが、第二次世界大戦後はイタリアとユーゴスラビアとの間で帰属をめぐる紛争が生じ、一時期は国際連合管理下の「トリエステ自由地域」が置かれていた。
名称
[編集]標準イタリア語以外の言語では以下の名称を持つ。
地理
[編集]位置・広がり
[編集]アドリア海の最奥部・トリエステ湾に面した港湾都市で、スロベニアとの国境の都市である。スロベニア領の都市コペル(イタリア名:カポディストリア)の北北東約12km、ウーディネの南東約63km、スロベニアの首都リュブリャナの南西約72km、ヴェネツィアの東北東約116kmに位置する[5]。
自治体としてのトリエステ市は広い市域を持ち、その面積はトリエステ県の5分の2を占める。
隣接コムーネ
[編集]隣接するコムーネ、およびそれに相当する行政区画は以下の通り。括弧内のSLOはスロベニア領を示す。
- モンルピーノ - 北
- ズゴニーコ - 北
- セジャーナ (Sesana) (SLO) - 北東
- サン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレ - 南東
- ムッジャ - 南
- ドゥイーノ=アウリジーナ - 北西
地勢
[編集]カルスト台地がアドリア海に迫っており、およそ海抜458mの高さの台地を切り落としたような急な崖が形成されている。トリエステの中心市街地は、その麓に築かれている。
気候
[編集]ケッペンの気候区分上では温暖湿潤気候に属し、イタリアの大部分を占める地中海性気候の地域と違い、夏季にもまとまった降水をみる。トリエステは年間約1000ミリメートルの降雨がある。また年間を通して強風のボーラが吹くことで有名である。
| Trieste Barcolaの気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 最高気温記録 °C (°F) | 16.6 (61.9) |
21.2 (70.2) |
23.9 (75) |
29.3 (84.7) |
32.2 (90) |
36.2 (97.2) |
37.2 (99) |
37.0 (98.6) |
34.4 (93.9) |
30.8 (87.4) |
24.4 (75.9) |
18.0 (64.4) |
37.2 (99) |
| 平均最高気温 °C (°F) | 7.6 (45.7) |
9.0 (48.2) |
12.2 (54) |
16.5 (61.7) |
21.6 (70.9) |
25.0 (77) |
27.9 (82.2) |
27.7 (81.9) |
23.3 (73.9) |
17.8 (64) |
12.3 (54.1) |
8.8 (47.8) |
17.48 (63.45) |
| 平均最低気温 °C (°F) | 3.8 (38.8) |
4.3 (39.7) |
6.6 (43.9) |
10.0 (50) |
14.5 (58.1) |
17.8 (64) |
20.3 (68.5) |
20.4 (68.7) |
16.8 (62.2) |
12.7 (54.9) |
8.1 (46.6) |
4.0 (39.2) |
11.61 (52.88) |
| 最低気温記録 °C (°F) | −9.3 (15.3) |
−14.6 (5.7) |
−6.4 (20.5) |
1.2 (34.2) |
3.8 (38.8) |
8.1 (46.6) |
10.3 (50.5) |
11.0 (51.8) |
7.0 (44.6) |
3.6 (38.5) |
−1.5 (29.3) |
−7.9 (17.8) |
−14.6 (5.7) |
| 降水量 mm (inch) | 58.0 (2.283) |
56.9 (2.24) |
63.4 (2.496) |
82.8 (3.26) |
84.2 (3.315) |
100.4 (3.953) |
62.1 (2.445) |
84.5 (3.327) |
103.4 (4.071) |
111.4 (4.386) |
107.4 (4.228) |
88.5 (3.484) |
1,003 (39.488) |
| 平均降水日数 (≥1.0 mm) | 7.8 | 6.2 | 7.8 | 8.5 | 8.7 | 9.3 | 6.5 | 7.3 | 7.1 | 7.9 | 9.1 | 8.4 | 94.6 |
| % 湿度 | 67 | 64 | 62 | 64 | 64 | 65 | 62 | 62 | 66 | 68 | 67 | 68 | 64.9 |
| 平均月間日照時間 | 96.1 | 118.7 | 142.6 | 177 | 226.3 | 243 | 288.3 | 260.4 | 210 | 167.4 | 99 | 83.7 | 2,112.5 |
| 出典:Servizio Meteorologico dell'Aeronautica Militare, data 1951-2011 | |||||||||||||
気候分類・地震分類
[編集]トリエステにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona E, 2102 GGである[6]。 また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 3 (sismicità bassa) に分類される[7]。
歴史
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古代・中世
[編集]現在のトリエステ地域には、紀元前3千年紀以後インド・ヨーロッパ語族であるカルニ人(en)が定住した。その後、イストリア人が定住し、彼らはヴェネティ人(en)がやってくる紀元前2千年紀までに主な文明を残した。
紀元前177年、トリエステは共和政ローマの支配下に入った。ユリウス・カエサル時代にトリエステは植民都市の地位を授けられ、その名をタルゲストゥム(Tergestum)と記録された(カエサルの著作『ガリア戦記』(紀元前51年))。西ローマ帝国滅亡後、トリエステは東ローマ帝国の軍事中心地のまま残った。
788年、伯爵位を持つ司教の宗主下で、フランク王国の一部となった。
1081年以降、市はアクイレイア大司教のゆるやかな支配下に入り、12世紀終盤より中世の自由コムーネとして発展した。
しかしその後2世紀にわたり、近郊の強国ヴェネツィア共和国との戦争が続いた。1369年から1372年にはヴェネツィアが事実上トリエステを支配した。
オーストリアによる統治
[編集]1382年からナポレオン戦争まで
[編集]ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世に、トリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願した。1382年10月、停戦合意締結が、シシュカ村(Šiška、ラテン語名apud Sisciam、現在はリュブリャナの一地区)の聖バルトロメウス教会で行われた。しかし市民らは、17世紀まで自治権の一定部分を保持した。
トリエステは重要な港湾と貿易のハブ地となった。神聖ローマ皇帝カール6世によってオーストリア領内における自由港とされ、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。カール6世の後継マリア・テレジアの時代は、トリエステの繁栄時代の幕開けとなった。
トリエステは、ナポレオン戦争中の1797年、1805年、1809年、3度にわたってフランス帝国軍に占領された。1809年の占領時には、フランス帝政下のイリュリア州に併合され、その自治権を失った(1813年にオーストリアへ返還された)。そして自由港の地位も中断された。
19世紀から第一次世界大戦まで
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ナポレオン戦争に伴い、トリエステは「帝国自由都市」(Reichsunmittelbare Stadt Triest)の繁栄を続けた。そしてキュステンラント(沿海地方、Küstenland)と呼ばれるオーストリア帝国直轄領の首都となった。
主要なオーストリアの貿易港・造船中心地としての役割は、後の1836年に船舶会社エスターライヒャー・ロイト(Österreichischer Lloyd、現在はイタリア・マリッティマ)が商業用路線の開設したことで強調された。ロイトはグランデ広場の角に本社を置いた。1913年からロイトは合計236,000トンの62船舶からなる船団を所有していた[8]。
オーストリア=ハンガリー帝国海軍も、トリエステの造船施設を使用し、基地を置いた。帝国初の主要幹線鉄道、ウィーン=トリエステ間のオーストリア南部鉄道が1857年に完成し、貿易のための価値ある資産そして石炭の供給に利用された。1916年時点で、弩級戦艦を収容可能な造船ドックが2つあった[9]。
20世紀初頭、トリエステはジェームズ・ジョイス、イタロ・ズヴェーヴォ、イヴァン・カンカル、ドラゴティン・ケッテ、ウンベルト・サバといった芸術家たちがしばしば集まる、活発な国際都市となった。市はオーストリア領リヴィエラ(Österreichische Riviera)の一部で、中央ヨーロッパに属していた。テルジェスティーノ(Tergestino)と呼ばれる特殊なフリウリ語が19世紀初頭まで話され、しだいにトリエステ方言(ヴェネツィア方言のひとつ)とその他言語(イタリア語、ドイツ語、スロヴェニア語)が勝るようになった。トリエステ方言は人口の大部分が話し、ドイツ語はオーストリア官僚政治の言語、そしてスロヴェニア語は周辺の村落で用いられた。今日、いまだウィーン風の建築と、ウィーン風のコーヒー・ハウスがトリエステの街頭で優勢である。
イタリア王国による併合
[編集]トリエステはトレントと共に、歴史的にイタリア人が暮らしてきたとする全ての土地をイタリアへ併合するという、未回収のイタリア回復運動の中心地であった。第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は瓦解し、トリエステは1920年にヴェネツィア・ジュリア全体と一緒にイタリアへ併合された。
しかし、この併合によってトリエステの重要性が失われた。また、トリエステは国境の町となったが、新たな国境は後背地をトリエステから分断することになった。
当時人口の25%を占めていたスロヴェニア人は、ファシスト政権の台頭によって迫害を受けた。これが市内部の緊張時代を招き、1920年4月13日、その頂点に達した。イタリア愛国主義者集団が、トリエステ在住スロヴェニア人の文化センターとなっていたナロドニ・ドムへ放火・炎上させたのである。
第二次世界大戦とユーゴスラビアによる占領
[編集]1943年9月8日にイタリアが連合軍と単独講和すると、ドイツ軍は北イタリアを占領し、トリエステ周辺には9月10日にアドリア海沿岸軍事地区(Operationszone Adriatisches Küstenland、略称OZAK)を設置した。OZAKにはイタリアの旧県、ゴリツィア・グラディスカ県、リュブリャナ県、フリウリが含まれ、フリードリヒ・ライナーが率いていた。ただし名目上は、9月23日に建国されたイタリア社会共和国領となった。
ナチス支配下で、イタリア領内唯一の強制収容所がトリエステ郊外リジエラ・ディ・サン・サッバ(Risiera di San Sabba、またはリジャルナRižarna)に1944年4月4日、建設された。市は、イタリア・パルチザン活動も盛んであり、連合国側の爆撃も受けた。
1945年4月30日、ドン・マルツァリとサヴィオ・フォンダ率いるイタリア反ファシスト解放委員会(大戦中のパルチザンによる)が、およそ3500人の志願兵らと組織され、反ナチス暴動を扇動した。
5月1日、ヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビア・パルチザン軍が到着し、ナチスから市の大半を解放した。ただし、サン・ジュスト城と庭園にあった兵舎には、ニュージーランド軍以外に降伏することを拒んだ者たちが集まっていた。ニュージーランド第2師団は、アドリア海北岸周辺の国道14号沿いにトリエステに向かって進軍を続け、5月2日にトリエステへ入った。ニュージーランド軍到着に伴って5月2日夕方にドイツ軍は無条件降伏した。
チトーのユーゴ軍は、6月12日まで市を完全に管理下に置いていた。ユーゴスラヴィア軍に占領されたこの期間は「トリエステの40日」として知られる。この時期、多くのファシスト、国粋主義者、その他大勢の共産体制に好ましからざる人々が殺された。多くはカルソにある甌穴へ、生きながら投げられた。1930年代にイタリア・ファシストによって始められた蛮行に対する同等行為による報復行為の一つである。その後、ニュージーランド軍がユーゴスラビア軍を退去させた。
トリエステ自由地域
[編集]
第二次世界大戦後、イタリアとユーゴスラビアの間で、トリエステとその周辺地域(ヴェネツィア・ジュリア)がどちらに帰属するかの紛争が発生した。重要な港湾都市であるトリエステは、戦後の東西対立の前線となった。1946年3月に、前イギリス首相チャーチルがアメリカ合衆国で行った「鉄のカーテン」演説(フルトン演説)は、のちに冷戦と呼ばれる緊張状態のはじまりを表現したものとして知られているが、この都市の名が次のように言及されている。
| バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。 |
1947年2月、トリエステとその周辺地域の領土問題は棚上げされ、トリエステ自由地域として国際連合管理下に置くこととされた。自由地域内は「モーガン・ライン(モーガン線)」で分割され、北部のZone Aは連合国側が、南部のZone Bはユーゴスラビアが分割占領することが決められた。トリエステ市はZone Aに含まれた。
1947年から1954年にかけて、Zone Aは連合国側軍事政府(アメリカ=イギリス連合軍)が統治した。Zone Bは、おおよそムッジャからカポディストリア(現在のコペル)までの海岸線からなるユーゴ領イストリアに含まれていた。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の指導者チトーは、数度にわたって Zone A に侵攻し、トリエステ市の管理を米英軍から無理矢理奪おうとした。これらの今や忘れ去られた小衝突は、冷戦時代のごく初期の戦いであった。
イタリア返還
[編集]1954年に取り交わされたロンドン覚書 (it:Memorandum di Londra) によって、トリエステ自由地域は解消され、イタリアとユーゴスラビアによって分割された。Zone Aに含まれていたトリエステ市は、イタリアの領土となり、南部のZone Bは、かつてZone Aに含まれた周辺の村落の一部とともにユーゴスラビアのものとなった。イタリアへの併合は、1954年10月26日に正式に宣言され、Zone Aはトリエステ県となった。
ユーゴスラビアとの国境問題と、少数民族の地位問題は、1975年のオージモ条約において明確に解決された。
1991年にユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが分離独立した際、南部はさらに二分割された。クロアチアとスロベニアとの間では新たな領有権問題が浮上した(ピラン湾を参照)。一方で、2007年にシェンゲン圏とユーロ圏に加わったスロベニアは、イタリアとの往来が無検査となり通貨も共通になったため、国境、国家を超えたトリエステ経済圏の確立が予想されている。2023年には、クロアチアもまたシェンゲン圏とユーロ圏に加わった。
行政
[編集]行政区画
[編集]行政区
[編集]
トリエステ市は、以下の7つの行政区(Circoscrizione)に分けられている。
- Altipiano Ovest (it:I Circoscrizione (Trieste))
- Altipiano Est (it:II Circoscrizione (Trieste))
- Roiano-Gretta-Barcola-Cologna-Scorcola (it:III Circoscrizione (Trieste))
- Città Nuova - Barriera Nuova - San Vito - Città Vecchia (it:IV Circoscrizione (Trieste))
