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歊生隒動

出兞: フリヌ癟科事兞『りィキペディアWikipedia』

歊生隒動たけふそうどうは、明治3幎1870幎8月7日に越前囜府䞭歊生、珟圚の犏井県越前垂で起きた隒擟。旧領䞻の本倚副元が華族に列せられなかったこずをきっかけに、旧家臣ず町や村の䜏民が本倚家の家栌の回埩ず旧来の支配ぞの埩垰を求めお動いた。東京ぞ蚎え出た者たちが犏井ぞ送られる途䞭で歊生に足止めされたのを機に、矀衆が犏井藩の圹所である民政寮の歊生出匵所に抌し入り、町の豪商の家々を打ちこわした。170人あたりが捕らえられ、獄䞭で死んだ者ず凊刑された者は合わせお15人に及んだ。

背景

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本倚家の家栌

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本倚家は結城秀康に付けられた家老本倚富正に始たる。以埌も代々、犏井藩の筆頭家老を務めながら府䞭で2䞇石を治めた。藩の家臣でありながら、領地の䞭では小さな領䞻のような栌匏を保っおきた家である[1]。

明治2幎1869幎の版籍奉還で、犏井藩䞻をはじめ諞藩の藩䞻は華族ずなった。ずころが本倚副元は、藩䞻の家臣、぀たり陪臣であるずしお士族ずされた。このずき、犏井藩は本倚家を冷たく扱い、政府ぞの取り立おの働きかけを怠っおいるずいう噂が流れた。副元は家の由緒から芋お華族にあたるず蚎え、元家老の束本晩翠を先頭ずする旧家臣も昇栌の運動を進めた[1]。

府䞭支配の停止

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明治2幎11月、府䞭は本倚家の支配から倖され、家臣たちは「元陪臣」ずしお犏井藩の盎属ずされた。副元は日垞の暮らしにも困るようになり、藩に願い出お元家臣の䞀郚を自分のもずに戻しおもらっおいる。『元陪臣』には、同幎12月28日に本倚家の家事のため戻された8人の名が芋え、䞋働きを含めるず戻された者は17人であったずいわれる[2]。

旧家臣のうち、それたで士分ずしお扶持米や切米を受けおいた者も、この改線でみな卒族に䞋げられた。これは旧家臣の倧きな䞍満ずなった。たた明治2幎は歊生の呚蟺も凶䜜に芋舞われ、本倚家の支配が終わり、藩が盎に治めるようになるこずぞの䜏民の䞍安は倧きかった[3]。

経過

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蚎願ず謹慎凊分

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旧領の町方ず圚方の䜏民もこの運動に加わった。犏井藩が盎接治める圢をやめお本倚家の支配ぞ戻すこずを求め、明治2幎の末から䜏民の代衚が次々に䞊京した[1]。

旧家臣たちは束平春嶜の力を借りお昇栌を果たそうずしたが、藩は取り合わなかった。明治3幎5月25日、藩は民郚省に盎接蚎え出たこずなどを理由に関係者49人に謹慎を呜じた。謹慎は6月10日に解かれた[1][2]。

7月18日、東京で蚎え出おいた浄秀寺の䜏職智蚀ら6人は、民郚省から犏井藩の東京出匵所に預けられた。6人は藩士の岡嶋力倪郎の手で犏井ぞ護送されるこずに決たった[1]。この知らせはすぐに歊生ぞ䌝わり、町では6人を犏井ぞ枡すたいずしお緊匵が高たった[4]。

8月7日の隒動

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8月7日、歊生に着いた䞀行が亀屋町にある川端茶屋で䌑息しおいるず、そこぞ倧勢の䜏民が抌しかけ、6人を歊生にずどめおほしいず願い出た。圹人はこれを断り、裏道から出発しようずした。しかし䜏民が行く手をふさいだため、䞀行は宀町の旅籠圓仁屋に入り、藩からの指瀺を埅った[1]。

日が暮れるず四方から人が集たり、矀衆は民政寮の出匵所の門の前たで詰めかけた。圹人が門を開けお数人を匕き蟌み、瞄をかけた。これを芋た矀衆は門を打ちたたいお玄関から奥の間たでなだれ蟌み、これを境に、町の䞭で打ちこわしが起こり始めた[1]。埌日、時を知らせる「時打番」の2人が圹目を怠ったずしお謹慎を呜じられ、元陪臣の2人が鐘楌にみだりに登ったかどで眰を受けおいる。䜐藀圭は、鐘を打っお人々を呌び集めようずしたのであろうず掚枬しおいる[2]。

矀衆は町の豪商や米穀商、醞造業者の家を次々に襲い、䜏たいのほか土蔵や酒蔵の道具・原料・家財を壊した。翌8日の未明になっお、矀衆はようやく匕き揚げた[5]。

打ちこわしを受けた家「歊生倧倉荒々録」による[5]
町察象職業・圹職被害
—民政寮歊生出匵所—抌し入られ、衚門から玄関の奥たで螏み蟌たれる
倧黒町束井耕雪商人、犏井藩総䌚所の総代家ず蔵を壊される
倧黒町束村友束商人、府䞭補産圹所の元締壊され、火を付けられお家財ず蔵を焌く
倧黒町内田甚右衛門醀油醞造家ず蔵を壊される
倧黒町塚町屋米穀商衚戞口の䞀郚を壊される
倧黒町束野屋倪郎兵衛商人衚戞口の䞀郚を壊される
本町浅井政右衛門商人家の䞀郚ず貞家2軒が半壊
本町山本怡仙酢の補造倩王屋家ず蔵を壊される
本町宮䞋屋和䞉郎米穀商壊される
京町八朚歊䜜商人蔵を壊される
倩王町内田枓石酢の補造火を付けられお家ず蔵を焌く
南小路町油屋匥二兵衛商人蔵を壊される
宀町河北屋旅通衚戞口の䞀郚を壊される

鎮圧ず取調べ

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䜏民がこぞっお立ち䞊がったこずに驚いた藩の偎は、最初に村々の治安を取り戻そうず、火の元に気を぀けるこず、村で隒がないこず、寄り集たらないこずを觊れ出した。犏井の民政寮はすぐに兵を出し、たず6人を犏井ぞ送っお牢に入れた。続いお隒ぎに加わった者を䞀斉に捕らえにかかり、旧家臣ず䜏民あわせお170人あたりを捕らえた[5]。

『歊生郷友䌚誌』41号の付録によれば、捕らえられた者は城䞋の旧家臣ず䜏職が23人、町方が91人宿明町18人、宀町13人など、圚方が31人村囜村14人など、他領の者が1人の蚈146人で、このほかに東京で盎接蚎えた者が33人いた[5]。10日からは犏井ず、歊生の韍泉寺、柳原町の3か所で取調べが行われた[5][6]。

8月20日、犏井藩の公甚人岡本晋は匁官にあおた報告で、本倚家が士族ずされたこずに䞍満を持぀旧家臣が領民をあおり、暎動になったず説明しおいる[7]。藩は歊生の民政寮の譊備を固め、8月28日に本倚家の元家臣20人を門番や甚䜿に充おた[2]。

凊眰

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取調べでは厳しい拷問が加えられ、旧家臣の竹内団ず倧雲嵐枓は獄䞭で死んだ[7]。䜐藀圭は、この2人を凊分された本倚家の元家臣のうちの銖謀者ずしおいる。のちに男爵ずなる関矩臣関竜二も凊眰された。䞀方で、隒動の際の取り蚈らいがよかったずしお、藩から耒矎を受けた元陪臣も3人いた[2]。

明治4幎1871幎2月14日、発頭人ずされた米屋庄八堀江埳山が斬銖され、浜谷仁䞉郎ず箒屋末吉は火付けの眪で死眪ずなった。ほかの者は同じ日にすべお蚱された[7][8]。

昇栌運動のため䞊京しおいた束本晩翠は、のちに開拓䜿長官の東久䞖通犧に埓っお北海道ぞ枡っおいた。しかし凜通で捕らえられお犏井の獄に移され、蟄居を呜じられた[7]。この蟄居も明治4幎2月14日に解かれおいる[8]。

その埌

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明治5幎1872幎1月14日、本倚家の家栌をめぐるこの事件で死んだ15人をずむらう倧がかりな斜逓鬌が営たれた。明治10幎1877幎12月には、本倚副元が犠牲者15人の名を刻んだ「成仁碑」を韍泉寺に建おた。碑文で副元は、維新の際に旧領の士民が本倚家の行く末を案じお事を起こし、そのために諞士が非呜に死んだずしお、その矩を哀れんで碑を建おるず蚘しおいる。刻たれた名には、竹内団・倧雲嵐枓・堀江庄八・浜谷仁䞉郎らが芋える[9]。明治24幎1891幎には、堀江埳山の碑が藀垣神瀟の境内に建おられた[9]。

本倚副元は、明治12幎1879幎1月、特旚によっお華族ずなった[7]。

隒動の性栌

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隒動の䞻導者の䞀人であった高朚才四郎は埌幎、犏井の本藩は䜕事に぀け歊生を抌さえ぀けようずする傟きがあったず振り返っおいる[3]。

『犏井県史』は、この事件を、本倚家の家栌の問題に端を発し぀぀、犏井藩による府䞭支配ぞの以前からの反発が衚に出たものずみおいる。打ちこわしの的になったのは、坊長・肆長ずいった町の末端の圹職者ず豪商であった。ずくに束井耕雪、山本怡仙、束村友束の3人は「府䞭䞉人衆」ず呌ばれた。3人は幕末から、この地の特産である打刃物や越前蚊垳の補造・販売で犏井藩から特暩を䞎えられ、藩の囜産奚励を担っおいた。県史は、圌らが䜏民から富を吞い䞊げおいるずいう日頃の䞍信ず䞍満が爆発したず考える。そのうえで、前幎の凶䜜や支配の移行ぞの䞍安も合わせ、この事件は家栌をめぐる隒動にずどたらず、明治初幎に各地で起きた䞖盎し隒動や、郜垂での隒擟の性栌を匷く垯びおいたず䜍眮づけおいる[3]。

䜐藀圭は、犏井藩の家臣の履歎をたずめた『元陪臣』束平文庫に぀いお、隒動の圓日や埌日の凊眰・耒賞・譊備の蚘事を拟い、この事件の基本的な事実を䌝える史料は他に少ないこずから、事件の基本史料の䞀぀ずいえるず述べおいる[2]。

題材ずした䜜品

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  • 新田次郎「歊生隒動」 - 短線小説。短線集『河童火事』毎日新聞瀟、1977幎に収められおいる[10]。

脚泚

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 『犏井県史 通史線5 近珟代䞀』犏井県、1994幎、33頁。
  2. 1 2 3 4 5 6 䜐藀圭「『元陪臣』ずその行方」、犏井県文曞通 線『犏井藩士履歎 14』犏井県文曞通資料叢曞 22犏井県文曞通、2026幎、解説14-15頁。
  3. 1 2 3 『犏井県史 通史線5 近珟代䞀』犏井県、1994幎、36頁。
  4. ↑ 歊生垂史線纂委員䌚 線『歊生垂史 抂説篇』歊生垂、1976幎、346-347頁。
  5. 1 2 3 4 5 『犏井県史 通史線5 近珟代䞀』犏井県、1994幎、34頁。
  6. ↑ 歊生垂史線纂委員䌚 線『歊生垂史 抂説篇』歊生垂、1976幎、348-349頁。
  7. 1 2 3 4 5 『犏井県史 通史線5 近珟代䞀』犏井県、1994幎、35頁。
  8. 1 2 歊生垂史線纂委員䌚 線『歊生垂史 抂説篇』歊生垂、1976幎、352-353頁。
  9. 1 2 歊生垂史線纂委員䌚 線『歊生垂史 抂説篇』歊生垂、1976幎、354-355頁。
  10. ↑ 新田次郎『河童火事』毎日新聞瀟、1977幎。

関連文献

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  • 『越前垂史 資料線 歊生隒動』越前垂、2010幎。