あの日、僕の後ろをついてきたのは横綱だった
「あったー!」
ビックカメラの隅っこにある換気扇パーツ売り場で、僕は妻のトラ子さんと、思わず声をそろえてしまった。
我が家の換気扇の型式はいつの間にか随分と古くなっていたらしく、いつも買っていた専用のカバーがどこのスーパーにも売っていなくて困っていたのだ。ようやくこの家電量販店の奥地でそれを見つけたところだったのだ。
「これでようやく、あの油でギトギトの換気扇の掃除ができるよ。へへ」
戦利品を高く掲げてほくほく顔で笑うトラ子さんと、ビックカメラのレジ待ちの列に、気分良く並んでいた時のことだ。
「おおーい!何やってんだよ!いつまで待たせんだよコラ!レジあけろよ!」
突如、フロアに怒号が響き渡った。
一人の男が、レジ待ちに苛立って大声で店員を恫喝している。一瞬で、その場の空気が凍りつく。焦りだす店員たち。並んでいる客も、サッと視線を外して気まずそうにしている。
男はさらに叫び続けている。僕は、なんだか無性に腹が立ってきて、一言言ってやろうと足を踏み出しかけた。その瞬間、トラ子さんが僕の腕をグッと引っ張った。
「かかわらないで」という無言の圧。うん、わかっている。こういう時に変に正義感ぶって飛び出しても、たいていろくなことにはならない。
結局、僕が動くより前に、文句を言っていた男は、怒りに任せて手元の乾電池か何かをカウンターの上に乱暴に叩きつけ、そのまま店を出て行ってしまった。
残されたのは、気まずい沈黙と、胸の奥のひどく苦い泥のような感情だけだった。
人それぞれ、正義や事情があるのだろう。すごく急いでいたのかもしれないし、朝から何か嫌なことがあって、たまたま虫の居所が悪かったのかもしれない。
でも僕は、あの男のドスドスと怒りに任せて歩く背中を見送りながら、そこで『品格』というものについて考えてしまうのだ。
「品格」なんて言葉を使うと、なんだか大層に聞こえるかもしれない。それこそ、大相撲の横綱に求められるような、重くて近寄りがたいもののように思える。強さだけでなく、その勝ち方や立ち居振る舞いまで厳しく審議される、そんな、遠い世界の話のように。
僕自身のことを考えても、決して品行方正な人間ではないし、休日に換気扇のフィルターを探して喜んでいる小市民には無縁の言葉かもしれない。
でも、どんな人にだって、人間として暮らしていくための、最低限の「品格」って絶対にあると思うのだ。僕も、普通に暮らしていく中で、自分なりの小さな自律というか、ルールみたいなものは持っている。
たとえば、乱暴な言葉遣いや、相手を見下すような言い方はしない。たまに、レストランやお店で従業員さんに対して強い言葉を使う人がいるけれど、それはアウトだと思う。
そして、自分の価値観を他人に押し付けたり、人のチャレンジをけなしたり、誰かを批判したり、揚げ足を取ったりすることもしないと決めている。
自分でこれらが「品格」だと胸を張るつもりはないけれど、僕なりの定義みたいに思っていることは、「やろうと思えばできてしまう」ときに、あえて自分を律して、その力を使わないことなんじゃないかと思うのだ。
強い立場に立って正論で殴ることも、相手を論破することも、怒りに任せて声を荒らげることも、大人になれば技術的にはできてしまう。でも、そこで踏みとどまる。
それが僕の選んだ、ささやかな「しない選択」だ。
品格というのは、決して特別な選ばれし人たちだけのものではない。僕たちのこのありふれた日常の中にも、気遣いや品格は確かな気配として存在している。
そんな「持っている力を使わない美学」について考えるとき、僕の脳裏には、いつもある剥き出しの音が響くのだ。
――カシュ、カシュ、という静かな爪音。

もう二十年以上も前の話になる。
以前に書いたエッセイで登場した近所のお弁当屋さんで、昼食の弁当を買って帰る道すがらのことだった。
ふと気がつくと、すれ違う人たちがみんな、チラチラと僕の後ろを見ている。なんだろう、僕の顔に何か付いてる? と少し居心地の悪さを感じながらも、そのまま家まで帰り着いた。
玄関の鍵を開けて、ふと後ろを振り返った時の衝撃たるや。思わず「うわっ」と声を上げた。
犬がいた。
それも、チワワとかみたいな可愛らしいやつではない。だいたいシェパードくらいの、少し毛並みが汚れた焦げ茶色の老犬だ。
確かに、お弁当屋さんで出来上がりを待っているとき、店の隅に老犬が寝そべっているのを見た。「今の時代に放し飼いなのか?」と思っていたけれど、まさかあの犬が、弁当の匂いにつられて僕の後ろをずっとついてきていたとは。
だからみんな、僕のことを見ていたのだ。今思えば、歩きながらずっと後ろから「カシュ、カシュ」という音がしていた。てっきりお弁当のビニール袋が風にこすれる音だと思っていたけれど、あれはアスファルトを叩く犬の爪の音だったのだ。
老犬は、玄関前にきちんと座り、僕の顔をじっと見上げていた。その瞳は、深い琥珀色をしていた。
その目を見ているうちに、驚きと共に、妙な感心が湧き上がってきた。
彼は飢えていたに違いない。
そして、僕の手には出来立ての弁当。犬の嗅覚は人間の数千倍ともいうから、プラスチックの容器越しでも、強烈な唐揚げの匂いが彼の胃袋を刺激していたに違いない。
その気になれば、お弁当を力ずくでひったくる「力」もチャンスも、帰り道の数分間にいくらでもあったはずだ。本能のままに動くなら、背後から飛びかかって弁当を奪い取ればよかったのだ。
でも、彼は奪わなかった。
適切な距離を保ちながら静かについてきて、最後は玄関先でスッと前足を揃えて座り、静かに僕を見上げていた。その姿に、僕は気品すら感じていた。
よく見ると、少し汚れているけど、やっぱりシェパードじゃないか? 特徴ある鼻のライン。以前からシェパードを飼ってみたいと思っていた僕は、一瞬「これはめぐり合わせだ、このまま飼うか?」という思いが頭をよぎった。
しかし、さすがにいきなりこんな大きな犬を招き入れるわけにもいかず。今どき野良犬ってこともないだろうし、かといって無責任に食べ物をあげるのもどうかと思う。
「もう帰りな」
僕は未練を残しながら、静かに玄関のドアを閉めた。
その間、その老犬は一度も吠えることなく、ただ静かに玄関前で座って僕を見つめていた。
感情に任せて吠えるのではなく、黙って前足を揃えたあの老犬は、もしかしたら僕の人生で出会った一番の横綱だったのかもしれない。
今でもふと、怒りに任せて言葉の刃を抜きそうになる時がある。自分の正義を振りかざしてしまいそうな衝動に駆られる時がある。
そんな時、背後から聞こえてくる気がするのだ。
カシュ、カシュ、というあの静かな足音が。
相生エッセイ
▽ 今回のお話に登場したお弁当屋さんのエピソードはこちらです。
▽ Substackで、このエッセイの裏話を書いています。
ぜひ読んでみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました😌
この記事が少しでも心に響いたら、スキやフォローで応援していただけると、とても励みになります!
他にも、日々の何気ない瞬間を切り取ったエッセイを綴っています。よかったら覗いてみてください。
Threads 、Substackで、このエッセイができるまでの裏話とnoteには掲載しきれなかったイメージ画像を投稿しています。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!