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センスは生まれつきではない──経験が圧縮された判断速度

「自分にはセンスがない」

写真を撮っていると、そんな言葉を耳にすることがある。

構図のセンスがない。
色のセンスがない。
被写体を見つけるセンスがない。

そして多くの場合、「センス」というものを、生まれたときから持っている特殊能力のように考えてしまう。

だが、本当にそうなのだろうか。

私はむしろ、生まれつき完成されたセンスなど、ほとんど存在しないと思っている。

センスとは才能ではない。

大量の経験によって身についた、極めて高速な判断力なのだ。


センスのある人は「考えていない」ように見える

写真が上手い人を見ていると、判断がとにかく速い。

街を歩いていて、

「あ、ここいいな」

と思った瞬間には、もうカメラを構えている。

人物撮影でも同じだ。

背景を見て、光を見て、被写体との距離を決め、立ち位置を変え、焦点距離を選び、絞りを決める。

それを数秒でやってしまう。

横から見ている人には、それが「感覚」でやっているように見える。

だから、

「あの人はセンスがある」

となる。

しかし本人の頭の中では、本当に何も考えていないわけではない。

過去の膨大な経験が、一瞬のうちに処理されているのである。


初心者が10秒考えることを、経験者は0.1秒で判断する

初心者が写真を撮るときには、一つひとつ考える。

「人物は真ん中でいいのか」

「背景が少しうるさいかな」

「もう少し寄ったほうがいいかな」

「35mmと50mm、どちらを使おう」

「F1.8まで開けるべきか」

こうした判断には時間がかかる。

これはセンスがないからではない。

単純に、頭の中にある判断材料がまだ少ないからだ。

経験を重ねていくと、

「この背景なら少し右」

「この距離なら50mm」

「この光なら顔を少しこちらへ」

という答えが、ほとんど反射的に出てくるようになる。

初心者が10秒かけて考えていたことを、経験者は0.1秒で処理する。

この速度差が、外から見ると「センス」に見えるのである。


センスとは、経験が圧縮されたもの

写真を何万枚も撮っていると、頭の中には膨大なデータが蓄積される。

この光はきれいだった。

この構図は失敗した。

この距離で85mmを使うと窮屈だった。

35mmで寄ったら背景との関係が面白くなった。

逆光ではこの露出がよかった。

この場所では背景を整理できなかった。

そうした成功と失敗の蓄積が、少しずつ自分の中に残っていく。

最初は言葉として考えていたものが、やがて感覚になる。

つまり、

論理が消えたのではない。

論理が高速化しすぎて、意識しなくなったのである。

これが「センス」の正体なのではないかと思う。


「なんとなくいい」は、本当はなんとなくではない

写真を選ぶときにも同じことが起こる。

数百枚の写真から、

「これだ」

と一瞬で選ぶ人がいる。

理由を聞くと、

「なんとなく」

と言う。

だが、本当はなんとなくではない。

表情。

光。

背景。

身体の角度。

視線。

余白。

瞬間。

色。

ピント。

それまで何千枚、何万枚と写真を見てきた経験が、一瞬で総合評価をしている。

本人ですら、その計算過程を説明できない。

だから「なんとなく」という言葉になる。

人間の感覚というのは面白い。

熟練すると、論理が感覚に変わるのである。


経験数だけ増やしてもセンスは磨かれない

ただし、単純にシャッターを切った枚数だけ増やせばいいわけではない。

同じ構図。

同じ距離。

同じ光。

同じ撮り方。

これを1万回繰り返しても、経験の幅はそれほど広がらない。

重要なのは、

撮る、見る、失敗する、比較する。

この繰り返しである。

なぜこの写真はよかったのか。

なぜこの写真はつまらないのか。

なぜこの構図は窮屈なのか。

なぜこの写真には立体感があるのか。

なぜこちらの写真のほうが目を引くのか。

こうした問いを何度も繰り返す。

その積み重ねによって、自分の中に判断基準ができていく。


他人の写真を見ることも経験になる

経験というと、自分で撮影した枚数だけを考えがちだ。

しかし、見ることも立派な経験である。

写真集を見る。

映画を見る。

広告を見る。

雑誌を見る。

SNSを見る。

美術館へ行く。

街の看板を見る。

日常の光を見る。

そして、

「なぜ自分はこれをいいと思ったのか」

を考える。

それだけでも、自分の中に判断材料が増えていく。

センスのある人というのは、撮影経験が多いだけではない。

日常の中で大量に観察している人でもあるのだと思う。


「センスがない」は便利すぎる言葉

だから私は、

「自分にはセンスがない」

という言葉を、あまり使わないほうがいいと思っている。

なぜなら、あまりにも簡単に自分の可能性を終わらせてしまう言葉だからだ。

センスが生まれつきなら、努力しても仕方がない。

しかし、

「まだ経験が足りない」

と考えれば話は変わる。

あと100回撮ればいい。

あと1000枚見ればいい。

失敗した写真を見返せばいい。

上手い人の写真と自分の写真を比較すればいい。

やれることはいくらでもある。


生まれつきの差より、経験の差のほうが大きい

もちろん、人によって得意不得意はある。

色に敏感な人。

空間認識が得意な人。

人の表情を読むのが得意な人。

音楽でも写真でも、最初から少し飲み込みが速い人はいる。

そこには確かに個人差がある。

しかし、それをもって「センスは生まれつき」と言ってしまうのは乱暴だ。

最初の数歩に差があったとしても、その後の何千歩、何万歩を決めるのは経験である。

写真を始めた瞬間から完成された構図を作れる人など、まずいない。

みんな大量に失敗する。

その失敗の中から、

「これは違う」

「これはいい」

という判断基準が育っていく。


センスとは才能ではなく、判断速度

センスのある人が特別な能力を使っているように見えるのは、判断があまりにも速いからだ。

考える前に構図を決める。

考える前にシャッターを切る。

考える前に写真を選ぶ。

だが、その「考える前」の裏側には、膨大な経験がある。

だから私は、センスという言葉をこう捉えている。

センスとは、生まれつき与えられた才能ではない。

経験によって磨かれ、やがて無意識まで高速化した判断力である。

最初は考えながら撮る。

そのうち、考えなくても撮れるようになる。

そして最後には、自分でもなぜそうしたのか説明できないほど自然になる。

その状態を周囲の人が見て、

「センスがある」

と言う。

ならば、センスがないと落ち込む必要はない。

今の自分に足りないのは才能ではなく、単純に経験なのかもしれない。

撮る。

見る。

失敗する。

考える。

また撮る。

その繰り返しの先に、「センス」と呼ばれるものは生まれてくるのである。

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