ただひたすらに、美しい月。 You're nothing more, nothing less than the beautiful Moon.
第一章 秋、補講授業はじまる

九月の終わり、塾の廊下の掲示板に、一枚のプリントが貼り出された。
『英語補講授業 受講者募集 条件:アルファベットが書けること』
それだけだった。講師の名前も、どんな授業かの説明も何もなかった。
中村ハルは、その紙を三秒見て、即決した。
「面白そう。行く。」
隣にいたクラスメイトが「ハルならわかるけど、補講って大変じゃないの」と言ったが、ハルはもう歩き出していた。そういう子だった。面白そうかどうか、それだけで動く。できるかどうかは、後で考えればいい。
初回の授業当日。教室に入ってきた生徒は、ざっと二十人ほどだった。最下位クラスの子もいれば、中堅クラスの子もいた。みんな、なんとなく来てみた、という顔をしていた。
ハルは一番前の席に座った。
五分前になった。
ドアが開いた。
入ってきた人を見て、ハルは思わず背筋を伸ばした。
がっしりした体格。丸刈り。太い黒縁の大きな眼鏡。スーツではなく、シンプルなシャツに綿パン。見た目だけなら、怖い。間違いなく怖い。
その人は教壇に立つと、ぐるりと教室を見渡した。
何も言わなかった。
挨拶をするどころか、名前すら言わなかった。やる気があるのかないのか、まったくわからなかった。
次の瞬間、先生は抱えていた紙の束を、教室の最前列の床に、どさっと置いた。
相当な量だった。それが何種類かに分けられていた。
「取りに来い。一人一枚ずつ。」
生徒たちが顔を見合わせながら、ぞろぞろと前に出た。ハルも立ち上がって、紙の束を覗き込んだ。
全部、びっしりと英文が並んでいた。二十五本。それを空所で答えたり、バラバラの単語を並び替えたり、和訳したり、英作文したり。一枚のプリントが、五つの顔を持っていた。
別のプリントには、三十個のマスが並んでいた。
「それは音読カードだ。一本読んだらマスにハンコを押す。家でやってこい。」
ハルはそのマスをじっと見た。三十個。全部埋めたら、どうなるんだろう。なんか、埋めたくなってきた。
一番最後のプリントを見て、ハルは目を丸くした。
例文が、全部、『君の名は。』だった。
「え、なにこれ、映画じゃん。」
思わず声に出たら、黒木先生は眼鏡の奥の目を、ほんの少し細めた。
「知ってる話なら、英語が頭に入りやすい。」
ハルの隣に座っていた女子が、小声で「天才じゃん」と言った。

授業が始まった。
黒木先生は、単語を和訳で教えなかった。
名詞を絵で描くのではなく、動詞や前置詞や副詞のイメージを、絵にして見せた。
たとえば「make」が出てきたとき、先生はチョークを持って黒板に向かった。
「makeは、作る、ではない。」
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