誰のためのため息でもないけれど
朝のSHRが終わると、Sさんがトコトコと僕の側にやって来た。
普段から無口なSさんが僕をじっと見つめる。
何か僕に話をしたいようだ。
小柄なSさんに、僕は腰をかがめて顔を近づける。
「先生、疲れていますか?」
Sさんが小さな声で言う。
「いや、疲れていないよ。どうした?」
ちょっと驚いて、僕はSさんの顔を見る。
こういうことだ…
Sさんが先日の考査期間の時、朝早くに空き教室で勉強をしていた。すると隣にある準備室から大きなため息が聞こえてきたという。とても疲れたような大きなため息が。その大きなため息をついたのが僕ではないか?というのだ。
たしかに、その時間にその準備室にいるのは僕だけだ。でも、いくら何でも、朝っぱらから僕はため息なんかつかない。そんなに疲れてはいない。
Sさんの空耳か、何かの聞き違いに違いない。
朝、弁当箱一つを持って学校に着くと、真っ直ぐに職員室に行く。I先生、T先生、H先生がすでに仕事をしている。みんな年寄りだ。歳をとると朝が早いのだろう。僕のほうが年上だけど。軽く挨拶をして、昨日の帰りに印刷した学級通信の束を持って教室に行く。
教室には列車組が数名来ている。スマホを見たり、勉強したり、朝ご飯のパンやおにぎりを食べたり、机に突っ伏して眠っていたりする。いつものように教室に電気はついていない。
朝だから明るいのが苦手だという。電気はつけないでくれと言う。ドラキュラみたいなヤツらだ。一人一人の机の上に通信を配る。誰も手伝ってくれない。文句はないけれど。今更手伝ってくれても、それはそれで気持ちが悪い。
その後、準備室に行く。机の上に弁当箱を置く。弁当箱の袋は息子が保育園の時に使っていたものを使っている。僕が履き古したリーバイスのジーンズを妻が弁当箱の袋に作り直した。ジーンズのお尻のポケットがそのまま付いていて、ハンカチなどを入れることができて便利だ。赤い糸で刺繍された息子のひらがなの名前に当時が思い出され、心が和む。
準備室の窓を開け空気を入れ換える。冷たい空気に身が引き締まる。準備室は2階にあるので、校舎前の庭がよく見渡せる。窓から見える木々の緑の葉に赤い色が少し入り始めた。季節は確実に冬に向かっている。しばらくしたら一面の雪景色になるだろう。早朝、雪の降った直後の雪面に残る狐やリスの足跡をここから見るのが僕は好きだ。
冬を迎える前にやるべきことは沢山ある。
今日やらなければならないことも山ほどある。
まずは今日のやるべきことを頭の中で、ざっとシミュレーションする。
座るとギシギシと軋む古びた椅子がある。よくあるオフィスの金属製の古い椅子だ。椅子の4つの脚に回転するローラーが付いていて、カーリングのストーンのようにスルスル床を移動できるのだが、古すぎて上手いこと動かない。
僕の鈍くなった頭のようだ。頭の中でのシミュレーションが全く進まない。
僕はちょっと背の低いその椅子にズドンと座る。
おおぅぁーーーーーーーーっ……
大きな声が漏れる。
自分の出した音に自分で驚く。
朝からしっかり疲れている。
この声をSさんは隣の教室で聞いていたのか。
出していたわ、大きなため息みたいな声。
Sさんに聞かれていたのか。
とても恥ずかしい。
あ〜…と、小さなため息をつく。

