PillowsideCosmos | 短編 - ピローサイド コスモス -
―― 団地の一室から、数枚の紙幣が消えた。
夫婦の間に広がる疑念。失業、浮気。
宇宙は何も語らず ――
枕元の暗がりの向こうでは、太古の生命が静かに息づいていた…。
* * * * *
玄関のドアが閉まり、金属的な冷たい残響が室内に響いた。
警察官たちの足音は、団地の錆びた階段を一段下るごとに、ゆっくりと遠のいていく。
残されたのは、夫婦二人と、その生活の匂いだ。
西日に焼けたカーテン、微かな夕食の残臭 ――。
その中に、他人(警察官)が持ち込んだ、硬質な外気の匂いが混ざり、リビングの空気を重くよそよそしいものにしていた。
カウンターテーブルの上には、妻の財布が開かれたまま置かれている。
数枚の紙幣が消えたという事実は、そのあらわな露呈によって執拗に主張され続けていた。
それはまるで、中身を食い荒らされた小動物の死骸のようにも見えた。
妻は、キッチンカウンターに背を向けたまま、動かない。
きれいにアイロンがけされたエプロンの紐が、彼女の背中で、神経質なくらい丁寧な蝶結びを描いている。
日常を必死に繋ぎ止めようとする意志と、今にも崩れ落ちそうな怯えが極限の均衡で保たれ、彼女のその背中はひどく強張っていた。
男は、古びたダイニングチェアに腰掛け、ただ、テーブルの財布を眺め続けている。
指先で、求人センターの番号札を無意味に弄ぶ。
警察官が最後に「念のため、見回りを強化しますから」と言ったときの事務的で冷淡な残響が、まだ室内に漂ったままだった。
沈黙。
冷蔵庫が立てる低いブーンという駆動音だけが、二人の間の断絶を、無機質に計測し続けている。
その沈黙を、夫の声が平板に終わらせた。
「……本当に、無くなったのか」
妻は背を向けたまま、じっと、身動きすらしない。
求人センターの番号札が、ぐしゃりと音を立てて潰れる。
「……お前の、勘違いじゃなかったのか」
夫はテーブルを指先で小突きながら、もう一度繰り返した。
「勘違い?」
妻の声は、絞り出すように細かった。ゆっくりと振り返る。
きれいにアイロンがけされたエプロンの胸元が、激しく上下している。
「警察を呼んだのよ。実況見分をしたのよ。私の財布から、お金が、消えてたのよ。
それが、私の勘違いだって言うの?」
「外部からの侵入形跡は、なかったんだろう」
「そう。だから何? 私が嘘をついてるって言いたいの? 自分で使って、盗まれたふりをしてるって?」
妻が一歩、床を踏みしめる音が重く響いた。
「違う。そうじゃなくて……」
「じゃあ、何よ。またあの子が
……隣の、あの子がやったって?」
妻の視線が、リビングの窓の方へ、一瞬、向かった。
「それは警察も……」
「あの子はまだ3歳よ。3歳の子が、鍵の閉まった家に入って、財布からお金を抜き取って、
また鍵を閉めていくなんて、そんなこと、できるわけないでしょう?」
妻の声が、徐々に熱を帯び始めていた。
男には妻の、エプロンの几帳面な蝶結びでさえ、小さな綻びに見える。
「……それより」
妻のやつれ果てたその声は、さらに鋭く尖りはじめた。
「今日、職業紹介所はどうだったの?」
夫は一瞬、妻へ視線を走らせ、すぐに逸らせた。
「……」
「仕事、見つかりそうなの?」
「……まだ、わからん」
「まだわからないって、いつまで? 私たち、これからどうやって生活していくつもり?」
「……考えてる」
「考えてるって、口先だけでしょう? 退職金だって、そんなに多くなかったし、家賃だって、いつまで払えるか……」
「……」
「生活だけじゃない。子供だっていない……」
妻が、普段は自らが避けている一線をふみ越えた。
「私たちには、子供だっていないのよ。私たちを守ってくれるものなんて、何もない。
この家も、生活も、自分たちで守るしかないのよ。それなのに、あなたは何もしないで……!」
男は、意図せず立ち上がった。椅子が不快な音を立てて勢いよく滑った。
「その話は……!」
「子供ができないのは、私のせい? それともあなたのせい? ……警察は、そんなことまで、実況見分してくれないわよね!」
妻がキッチンから鍋をつかみ取り、ダイニングテーブルへ叩きつけた。
激しい衝撃音。スープが、テーブルの上に飛び散った。
「生活はどうするの? 警察が来るような家で、仕事もない男と、子供もできない私が、どうやって生きていくのよ!」
妻は震える手でエプロンをむしり取り、床へ投げつける。
「うるさい!」
夫が叫ぶ。
テーブルの上の、警察が物色したままの財布を、手で払い飛ばした。
財布は空中を舞い、中から、残っていた紙幣が数枚、ひらひらとフローリングの上へ散らばった。
「お前がヒステリーを起こしても、何も解決しない!」
「私がヒステリー? 私が嘘つき? 私が子供ができないから? あなたが仕事がないから?」
「お前が!」
「あなたが!」
二人の言葉は意味を失い、ただ相手を切り裂くためだけの凶器として飛び交う。怒号、ものが壊れる衝撃音……。
激しい感情の淀みが、リビングの空気をいっそう取り返しのつかないものに変えていった。
古い床に散らばった紙幣や、投げつけられたエプロンは誰からも忘れ去られ、虚しく静止している。
やがて、妻は黙り込み、男は自室へ引き上げた。
妻は、誰もいなくなった途端、テーブルに力無く突っ伏した。
必死に保っていた輪郭は崩れ落ち、長く、震えるようなため息だけがキッチンを満たした。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
男は乱暴にドアを閉めると、ここ数日の習慣のように、部屋に閉じこもった。
夕暮れが訪れると、部屋の輪郭はゆっくりと闇に溶けていった。
電気もつけず、ベッドの上に仰向けになったまま、男はじっと天井を見つめていた。
胸の奥に残る不快な塊と、自分が無職であるという切迫した現実が重くのしかかり、呼吸を浅くさせる。
やがて夜が更け、家全体が深い静けさの底へと沈んでいった。
男はウッドチェアーに腰掛けて、琥珀色の液体を口に含む。
喉を灼く熱さを感じながら、意識はずっと、まだ、あの数カ月前の白い会議室から抜け出せずにいた。
人工的なLEDの光の下、組織の代弁者が差し出してきた一枚の紙切れ。
事務的な言葉の陰に隠された「お前はもう不要だ」という赤裸々な告発。
長年を費やしてきた生活のすべてが、たった数分の形式的なやり取りと、冷淡に記された一文字の署名によって、音もなく無効化されていく恐怖。
デスクの私物を片付けているとき、通り過ぎる同僚たちが向けた、あの哀れみと安堵の混ざった気まずい視線。
存在理由を根こそぎ奪われたような、あの日の屈辱と喪失の感触が、今も身体中にしみこんで離れなかった。
氷の溶けかけたウイスキーを一気に飲み干す。重いアルコールが脳の奥を麻痺させていく。
男はグラスをサイドテーブルに置き、またベッドになだれ込んだ。
枕元の小さなスタンドライトをつけ、読みかけの古い単行本をおもむろに開く。
だが、アルコールと疲労で、まどろみが急速に意識を侵食していった。
印刷された文字の列は、じわじわと形を失い、滲んでいく。
意識が覚醒と睡魔のあわいをゆらゆらと漂い、現実の感触が緩やかに溶け出していった。
船を漕ぐように深く沈みかけた瞬間、指先からふっと力が抜けた。
バサリ、と力ない音がして、文庫本がベッドと壁の狭い隙間へと落ちた。
光の届かない、黒々とした暗がり。
男は重い瞼を開けきれぬまま、夢うつつのまどろみの中で、本を拾おうと無造作に腕を差し入れた。
床のフローリングを探るはずの指先。
だが、腕はどこまでも深く、闇の底へと落ちていく。
肘のあたりまで吸い込まれた瞬間、重力が消失した。
意識が一変する。
***
そこに広がっていたのは、一切の理屈を覆す、見渡す限りの鮮烈な「黄色い空」だった。
肉体を持たない純粋な視界は、大地に生い茂る巨大なシダ植物の葉を捉えていた。
遠くで、大地を力強く踏みしめる地響きが低く鳴り渡る。
針葉樹の合間から、途方もなく長い首を持ち上げた巨躯――ブラキオサウルスの群れが、黄色い空を背景にゆっくりと横切っていった……。
***
カーテンの隙間から差し込む白い光で目が覚めた。
男はしばらくベッドの上でボーッとしていた。右腕が冷え切っている。
ベッドと壁の隙間に深々と差し込まれたままの腕を、ゆっくりと引き抜いた。
指先に付着していたのは、ただの埃の塊だ。
「……変な夢を見たな」
小さく呟き、喉に渇きを覚えながら起き上がる。
黄色い空も、大地を揺らす巨大な影も、酒と疲労が見せたタチの悪い夢にすぎない。
そう自分に言い聞かせながら、だるい身体に鞭打って洗面所へ向かった。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
昼過ぎの求人センターの待合室では、少し朦朧とした意識と独特の湿った熱気、番号を呼ぶ合成音声が混じり合い、軽いデジャヴを引き起こさせた。
パイプ椅子に腰掛け、男は手持ち無沙汰に番号札を指で弄んでいた。
隣に座っていたのは、プレスしたズボンを綺麗に穿いた、60代半ばの男だった。
「毎週ここに来るのも、なかなか骨ですな」
話しかけてきたその男は、定年退職したばかりの元中学教師だった。ここに通い始めて数カ月、見覚えのある顔だった。
退職金は住宅ローンの繰り上げ返済でほとんど消え、妻の医療費と日々の生活費のために求人票を探しに来ているという。
「昔教えた教え子に、こんなところで鉢合わせしないかとヒヤヒヤですよ。
世間体なんて気にしてちゃ生きていけないとは思いつつもね。
……あなたもお若いのに大変だ。今はどこも厳しいでしょう」
年金支給額の減額、再雇用の厳しい条件、日々の食費のやりくり。
教師特有の丁寧な言葉遣いで語られる切実で世俗的な事象が、男の脳裏を淡々と打ちつける。
自分自身も同じ世界に生きているのだ、という逃げ場のない共感が、今更のように重くのしかかってきた。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
夕方、重い足取りで団地の階段を上る。足には、驚くほど力が入らなかった。
玄関のドアを開けると、普段はない甲高い笑い声が聞こえてきた。
靴を脱ぎリビングへ入ると、そこには昨夜の修羅場が嘘のような光景があった。
食卓には、お隣の3歳になる男の子が小さな椅子にちょこんと腰掛けている。
その向かいで、妻が久しく見せたことのない柔らかく、浮き立った笑みを浮かべていた。
「あら、おかえりなさい。いまね、ちょうど、遊びに来てくれたの」
妻の手元には、小さなガラス容器に入った手作りのプリン。
スプーンですくって幼子の口へ運ぶと、口の中をいっぱいにしながら、無心にそれを頬張った。
子供のいないこの家に、つかの間満ちる、どこか浮世離れした多幸感。
妻の弾んだ声と、幼子の無垢な咀嚼音。
男は部屋の入口に立ったまま、その光景をただ静かに眺めていた。
昨夜叩きつけられたスープの痕跡は綺麗に拭き取られ、
そこには妻の、健気さの欠片だけが残されていた。
幼子がふと男に気づき、くりくりとした丸い瞳で見上げてくる。
男は少しためらいながらも、その無垢な眼差しには抗えず歩み寄ると、膝をつき、幼子の小さな頭の上にそっと手を乗せた。
陽だまりのような柔らかく温かい感触が、手のひらを通して冷え固まった胸の奥へじわりと広がっていく。
一瞬、胃のあたりの重苦しい塊が解けていくような感覚があった。
だが、妻の弾んだ声と、幼子の無垢さが、
この家に存在しない「あったかもしれない未来」を無情に浮かび上がらせる。
男はハッと正気に戻ると、静かに手を離し、逃げるように自室へと引っ込んだ。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
卓上のグラスにウイスキーを注ぎ、氷も入れずに一気に煽る。
喉を焼く熱さすら、いまの男には生ぬるかった。
―― 妻と幼子の、不自然なほど睦まじい光景が頭から離れなかった。
ベッドへ倒れ込み、吸い込まれるように意識を手放す。
***
ふたたび、あの闇。
だが、昨夜とはまるで違っていた。
「視界」だけだった世界に、突如としてリアルな感覚が押し寄せてくる。
むせ返るような濡れた草と泥の匂い。肌に纏う熱帯の湿気。
足元を揺らす「ズシ、ズシ」という巨獣の足音が、自らの鼓動と直接重なり合い、脊髄を震わせた。
目の前で、巨大な肉食獣が草食獣の肉体に躍りかかる。
バリリ、と肉と筋肉が引き千切れる生々しい音。弾け飛んだ熱い血の飛沫が、男の顔や胸元へ豪快に降り注いだ。
鉄の匂いと、圧倒的な「生の脈動」が皮膚を突き抜ける。恐怖などない。
ただ、生きているという圧倒的な狂喜が、男の全身を駆け巡っていた。
***
「ちょっと……あなた、それどうしたの?」
妻の怯えたような甲高い声で目が覚めた。
朝の光の中、枕元に立つ妻が、男の胸元を蒼白な顔で指差している。
視線を落とすと、着古したパジャマの胸元から腹にかけて、赤黒く乾いた液体が斑点状に大きく広がっていた。
生臭い、鉄の匂いが微かに鼻を突く。
「血……? どこか怪我でもしたの? 大丈夫!?」
混乱した妻が慌てて手を伸ばしてくる。
男は咄嗟に妻の手を振り払う。胸、首、顔と撫でまわすが、痛みはどこにもない。
自分でも何が起きているのか、全く分からなかった。
昨夜の夢の、あの熱い血の感覚が、身体中に残っている。
「……あ、いや」
男は動揺を隠すように、血の染みを覆い隠しながら目をそらした。
「鼻血だ。……夜中に急に出て、そのまま寝ぼけて擦っちゃったみたいだ。大したことないよ」
「でも、こんなに……」
不審そうに眉をひそめる妻を押し切るように、男は洗面所へ向かった。
鏡に映る自分の顔には傷一つない。シャツを脱ぎ身体中確かめてみたが、なんの異常も見あたらなかった。
だが、服についた赤黒い染みは、まぎれもない「現実」としてそこに存在している。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
昼前、玄関のベルが鳴り、お隣の母親が、また幼子を連れてやってきた。
「急な用事で小一時間ほど……」と申し訳なさそうに頭を下げる母親から、妻は吸い寄せられるように幼子を受け取った。
その横をすり抜け、男は求人センターへ向かうため、重い靴を履いて団地の階段を下りた。
―― その夜も、男は期待と緊張を胸にベッドへ潜り込んだが、闇の奥へ引きずり込まれる感覚は訪れなかった。
ただの静寂。
太古の湿った匂いも、巨獣の地響きも、血の熱さもない。
エアポケットのような、あまりにも不甲斐ない空白の夜だった。
男は一睡もできず、白い天井を見つめたまま朝を迎えた――。
妻の秘密に触れたのは、洗面所に向かう途中の何気ない瞬間だった。
リビングの隅に脱ぎ捨てられた、妻の上着のポケットから小さな紙片が覗いていた。
拾い上げようとして目に入ったのは、近所のラブホテルの名が印字されたレシートの切れ端だった。
妻は最近、買い出しと言っては妙に長い時間外出することが増えていた。
ふとした瞬間に鼻をかすめる、わずかな香水の残り香。
(……ああ、そういうことか)
薄々感じていた違和感の断片が、静かに噛み合った。
リビングから消えた数枚の紙幣。妻は、なけなしの金を使って、こんなことをしていたのか……。
だが、男の胸に湧き上がってきたのは、怒りでも、裏切られたという絶望でもなかった。
それどころか、ボロボロになりながらも足掻く妻のその姿を、愛おしくさえ思えた。
彼女もまた、誰かに寄りかかることでしか呼吸ができなかったのだろう。
なにより、あの太古の強烈な「生の灼熱」と「圧倒的な肉の質量」。
それらに比べれば、妻が世間体と小さな欲の狭間でこっそり犯している浮気など、
あまりにもちっぽけで、ほほ笑ましい「人間のままごと」に過ぎなかった。
男は、その紙片をポケットの奥へそっと押し戻した。
そのまま床から拾いあげた上着をテーブルの上に置く。
妻はよほど疲弊しているのだろう。普段の彼女なら、ここまでずさんに証拠を掴まれるようなミスはしない。
この世界の重圧に押しつぶされ、心も体もすり減っているのだ……。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
夜、また重い沈黙がリビングのテーブルを挟んで二人を隔てていた。
湯気の収まったコーヒーカップを前に、妻は指先を固く折りたたんでいる。
妻の視線は、テーブルの端に置かれた上着——今朝、男が触れた箇所に、釘付けになったまま動かない。
(——気づかれている)
妻の呼吸が微かに乱れ、喉が引きつった。
浅はかな綻びが、あまりにもあっけなく晒されてしまった。
疲弊と恐怖で、妻の顔からは急速に血の気が引いていく。
だが、向かいに座る男の瞳には、責め立てるような鋭さも 冷ややかな怒りすらもない。
ただ、遠い水底の出来事を見つめるような、静かで穏やかな光だけが宿っている。
人間たちの織りなす小さな歪みなど、もうどうでもよかった。
男の意識はすでに、あの圧倒的なカオスが渦巻く世界の入口へと、再び連なり始めていた。
「今日はもう疲れた。先に寝るよ」
男の声は優しく、滑らかだ。
男はゆっくりと立ち上がると、台所の冷蔵庫を開け、ガラガラと乾いた音を立ててグラスに氷をいくつか放り込んだ。
妻の強張った背中に、一切の追及を向けることなく、
そのまま静かな足取りで階段を上り、2階の自室へと向かった。
男が出て行った後、薄暗いキッチンの一角で、
彼女は窓の外に背を向け、低く絞った声でスマホを耳に押し当てる。
「…うん、分かってる。明日、すべて終わらせるから。
……こっちとは、ちゃんと区切りをつけるから……」
電話の向こうにそう告げる声には、逃げ場のない焦燥と、諦めに似た覚悟が入り混じっていた。
スマホの画面を消し、悲痛なため息を吐いた。
彼女は、しばらく呼吸の仕方を忘れたまま、冷たい窓辺に寄りかかった。
窓の外には漆黒の暗闇が、ただどこまでも深く続くだけだった。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
男は自室に入りドアを閉めると、鍵をかけた。
薄闇の室内で、卓上に置いてあったウイスキーのボトルを手に取った。
グラスの氷の上から、琥珀色の液体を惜しみなく注ぎ込む。
カラリと甲高い音を立てて氷が浮かび上がり、濃厚なモルトの香りが野生をくすぐった。
グラスをあおり、喉を焼く熱さを口に含みながら、男はベッドと壁の隙間——
あの濃密で圧倒的な「世界の真実」へと繋がる黒々とした暗がりを見つめた。
妻の小さな過ちも、世間の理屈も、もはやこの部屋のドアの向こう側のちっぽけな戯れに過ぎない。
男はグラスを置くと、引き寄せられるようにして、その暗がりへと静かに腕を伸ばしていった。
瞬間、自分の鼓動がどこか遠く、巨大なものの鼓動と重なるのを、薄れゆく理性の狭間で感じていた。
***
視界を遮るほどに巨大な、太古の針葉樹が空を突いている。
その合間を縫うようにして、ブラキオサウルスの群れがゆっくりと移動していた。
彼らの長い首は、重力に抗うようにして高く掲げられている。
一歩、また一歩と巨体が踏みしめるたびに、地表は微かに震え、湿った土の匂いが立ち上がった。
西の地平へと沈みゆく、巨大で歪な太陽。
その残光を浴びながら、群れのシルエットは悠然と、だが確実に大地を横切っていく。
そこには言葉も、思想も、意味も介在しない。
ただ、圧倒的な質量を持った生命の循環だけが、静かに、そして残酷なほどの力強さで繰り返されていた。
太陽は地平の端で膨張し、大気を赤銅色に焼き焦がしている。
ブラキオサウルスの群れは、その巨躯を夕闇に溶け込ませながら、ただ黙々と歩みを進めていた。
彼らが吐き出す湿った息は、シダの生い茂る森の空気を震わせ、太い足が泥を捉えるたびに、大地は重低音の唸りを上げる。
だが、その平穏な重低音を切り裂くように、風向きが変わった。
はるか風下。
湿り気を帯びた草の匂いに混じって、
鋭利な「飢え」の気配が立ち上がる。
群れの動きをじっと見据える、冷たい眼光。
熱を帯びた巨木の間を、音もなくすり抜ける影があった。
それは捕食者の吐息だ。
獲物の熱量を嗅ぎつけ、神経を研ぎ澄ませた殺意が、ゆっくりと、確実に距離を詰め始めていた。
視界は低く、熱を帯びている。
肺に流れ込む空気は、濡れた草と、ブラキオサウルスの群れが撒き散らす圧倒的な「肉」の匂いに満ちていた。
アロサウルスは、針葉樹の影に身を潜め、喉の奥でかすかな鳴動を殺している。
その眼窩に収まった瞳が捉えているのは、群れの末尾を行く、わずかに歩調の遅れた一頭。
その巨体は山のようにそびえ、夕映えの中で黄金色の輪郭を晒していた。
アロサウルスは重心を下げ、強靭な後肢の筋肉を極限まで収縮させる。
風が止まった。
次の瞬間、地面を蹴り飛ばした衝撃と共に、視界が加速する。
狙いは、高く掲げられた首ではなく、その剥き出しになった巨大な後肢の付け根。
疾走する振動が、己の顎から伝わる飢えと共鳴する。
獲物が異変に気づき、咆哮を上げるよりも早く、アロサウルスは跳躍した。
冷たく鋭い鉤爪が、熱い皮膚を深々と切り裂く。
開かれた顎から覗く鋭い歯は、その質量を支える腱を断ち切るために、迷いなくその肉へと沈み込んでいった。
牙が熱い肉の深淵に達した瞬間、アロサウルスの脳を突き抜けたのは、圧倒的な「生の充足」だった。
ブラキオサウルスが上げた断末魔の咆哮は、重低音の振動となって地面を伝わり、周囲のシダの葉を震わせる。
巨体はその場に崩れ落ちようとするが、あまりの質量ゆえに、倒れ伏すことさえも緩慢な、巨大な地滑りのようだった。
アロサウルスは噛みついたまま、強靭な首の筋肉を使い、獲物の肉を強引に引きちぎる。
口内に溢れる、鉄の匂いを帯びた熱い血。
群れの他の個体たちは、この犠牲を振り返ることもなく、ただ地響きを立てて去っていく。
太古の平原に残されたのは、荒い息を吐きながら貪り食らう捕食者と、
次第にその体温を失い、大地という泥へと還っていく巨大な山のような亡骸だけ。
アロサウルスの瞳には、沈みきった太陽の後の深い紫色の空と、
そこに光り始めた、現代よりもずっと近く、鮮やかに輝く星々が映っていた。
男は、血に濡れた頭部をゆっくりと持ち上げた。
その瞳は、もはや獲物を見ていない。
地平の彼方、沈みきった太陽が残したわずかな残光を見据えている。
男の喉が低く震えた。
それは、満腹を告げる合図でも、勝利の咆哮でもない。
ただ、この圧倒的な質量を持った「個」として、この瞬間の大気を吸い込んでいるという、震えるような確信だった。
男は、足元に転がる亡骸に一瞥もくれず、一歩を踏み出す。
泥を掴む強靭な三本の爪。大地を揺らすその足音。
男は夜の帳が下りた密林の奥へと、その巨大な影を溶け込ませていく。
背後には、彼が食い散らかした血にまみれた巨大な肉片が遠ざかっていった。
***
男は目を覚ますと、まず真っ白な天井が見えた。
視界を埋めていた泥と血の匂いが、一瞬で漂白される。
天井の蛍光管の笠には、小さな羽虫の死骸が透けていた。
深く息を吸い込む。胸の奥に、かつてないほどの透明な広がりがあった。
身体が軽い。
骨の芯まで、圧倒的な生の感覚が満ち満ちている。
ふと視線を落とすと、パジャマの胸元から腹にかけて、赤黒いしみが大きく広範囲に広がっていた。
鼻血などという生ぬるいものではない。命の塊を食い散らかしたあとの、本物の血の痕跡。
一瞬の動揺すら、いまの男にとっては心地よい波紋に過ぎなかった。
男はパジャマを乱暴に脱ぎ捨てると、丸めてそのままゴミ箱の底へ押し込んだ。
シャワーの熱い湯を浴びながら、首を大きく振る。
皮膚に残る鉄の匂い。
男の口もとには笑みすら浮かんでいた。
理由も、意味も、もうどうでもよかった。
あの枕元の闇のなかに、間違いなく「息づいている」のだ。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
「あの……顔色、いいのね。最近ずっと疲れてるみたいだったから」
食卓の向かいで、妻が小さく声を漏らした。
罪悪感を隠すように過剰に甲斐甲斐しく、湯気の立つスープを差し出してくる。
その手元は微かに震えていた。視線は決して男の目を真っ直ぐ捉えようとしない。
彼女の日常は、もうすでに壊れていた。
だが、男にとって目の前の妻の怯えも、浮気も、窓の向こうの世間の騒がしさも、
すべては遠い水底の出来事のように滑稽で、愛おしかった。
「ああ。すごく良く眠れたんだ」
男は穏やかに微笑み、熱いスープを口に含んだ。
胸の奥で、あの太古の重低音が、静かに、だが確実に響き続けていた。
夜の闇の中で味わったあの圧倒的な生の灼熱と、底知れぬ生命力。
それが血管を駆け巡り、停滞した日常のすべてを鮮やかに塗り替えていく。
その時、妻が意を決したように切り出した。
「…話があるの。少し、車で……付き合ってくれない?」
その声は、ひどく疲弊していた。
男は何も言わず頷いた。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
数分後、車のエンジン音が遠ざかり、鍵の閉められた家から完全に人の気配が消え去った。
しん、と静まり返ったリビング。
テーブルの端には、「共益費・集金用」とボールペンで殴り書きされた茶封筒がぽつんと置かれている。
カチャリ、と小さな金属の擦れる音が響いた。
勝手口の足元に設けられた小さな猫ドア。
まず、くすんだ灰色の毛並みをした猫がするりと頭を覗かせ、静かに部屋へ滑り込んでくる。
続いて、その小さな穴を押し広げるようにして、お隣の幼子が四つん這いで、入ってきた。
先を行く猫のしっぽを、ただ無心に追いかける。
幼子のまん丸い瞳が、テーブルの隅からはみ出している茶封筒を捉える。
小さな手が伸び、封筒の口から覗く数枚の紙切れをつまみ出した。
透かしの入った数枚の紙幣は、幼子の手の中でただの「カサカサと心地よい音を立てるおもちゃ」に成り果てる。
お札を小さな拳の中に強く握りしめると、幼子は再び猫の後を追うように、猫ドアの狭い隙間から外の光の中へと這い出していった。
年月の刻まれた、郊外の静かな集合住宅。
無機質なコンクリートの給水塔が見下ろす中、幼子は不器用な足取りで土手へと続く階段を上っていく。
風が勢いよく吹き抜け、幼子の薄い髪をなびかせた。
目の前には、連日の雨を含んで濁々と褐色に波打つ、大きな川が横たわっている。
幼子はそっと手を開いた。
一瞬、風が息を吹きかける。
数枚の紙幣は、まるで解き放たれた冬の蝶のようにひらひらと宙を舞い、
美しい軌道を描きながら、褐色の濁流へと吸い込まれていった。
水面に落ちた紙切れは、理由も意味も失い、一瞬で渦の中に巻き込まれ、二度と浮き上がってはこない。
真相は永遠に水底の泥へと沈み、
団地の風だけが、何事もなかったかのように草むらを揺らし続けていた。
Fin
* * * * *
書きおえて……
執筆の途中、ふと「これはフランツ・カフカやカミュの系譜を踏んでいるのかもしれない」という感覚が、頭をよぎりました。
頭の中で物語の全体像が立ち現れたときには、『マグノリア』『バベル』『アメリカン・ビューティー』といった映画たちが持つ雰囲気が、あちこちに滲んでいるのを感じました。
そして書き上げ、何度か読み返しているうちに、ふと気がついたのです。
** これは、10代の頃に読んだ『禁じられた遊び』だ、と。**
あの胸を締め付けられるような、無垢な衝撃。
その感触を、私の無意識はずっと、どこかで表現したがっていたのだと思います。
─── ・ 。゚☆: *.☽ .* :☆゚.───
📖 うつろ アニマ 小説 作品
――湯上がりのような、甘いマリンエッセンスの香りが漂う、夜明け前の美しい海岸線……。
【短編】マリンエッセンスのそよ風 🔗
***・―・***・―・***
――前略、太宰 治 様。時代は、ずいぶん変わりました。ただ、人はまだ、お面を外せずにいます。
from 唯月
【小説】ムクドリ の目覚め 《前編》 🔗
――そして、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン が語りかけた。ムクドリの姿を借りて……。
【小説】ムクドリ の目覚め
《後編》 🔗
《 前編・後編・ZERO 》をまとめたマガジンです。
【小説】ムクドリ の目覚め MAGAZINE 🔗
***・―・***・―・***
短編小説 集
『 EMOTIONAL MARKET 』
( エモーショナル マーケット )
― 2026 . 05 - 08 ―
2026年 5月から 8月にかけて紡いだ小説、全10篇。 🔗
***・―・***・―・***
