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face to face

大勢の人にたくさんの影響を与える人…。

それをかつてはずっと目指していたし、そういう人には大きな価値があり、たくさんの人に幸福感を与えたり、学びと成長を与えることは、とても尊いことだと思っていた。

もちろんそれは素晴らしいことだし、すごいことだと思う。尊敬すべき行為である。

何千、何万人も魅了し、喜びを与えるエンターテイナーや、何十万部の書籍が売れて、人々の感情や思考に影響を与える作家さんなど、僕のような凡夫には、到底できない芸当だ。

(悪影響というのもあって、それはむしろ危険なものになるけど、今回はそっちは論じない)

しかし、最近は少しずつその考えは変わってきた。

“考え”が変わったというか、「感覚」が変わったのだろうと思う。

この世で最も尊いものは、「数」よりも、「深さ」や「強さ」ではなかろうか?

例えば、我が子を深く愛し、自己を捨てて奉仕する母。

家族のため、恋人のため、友のために、身を投げ打って苦難を引き受けたり、時に犠牲になる人…。

たった1人に与える影響。当然それをやっても、なんら社会的にはインパクトはなく、偉業と称えられることもない。

そしてなんなら、無駄死にと言われるような犠牲もあるかもしれない。つまり、どんなに愛と勇気と犠牲を払っても、望んだ結果が伴わないこともある。影響を与えられない、ということだ。

しかし、そのような生き方は、例えば大勢の人に影響を与えたり、喜ばせることよりも劣っているのだろうか?

比べられるものではない。わかっている。

でももし比べるための指標があるとするのならば、この世界で最も尊いものは、数ではなく、一言で言うなら「愛」の深さだとしたらどうだろう?

ここで言うところの「愛」とは、「思いやり」「無償の奉仕」「仁義」「信念」「自己犠牲」などの総体的なもの。

一般的に扱われる「愛」という言葉の意味の多くは「好きの最大級」としての言葉だけど、もっと大きいものだ。

もちろん、その大きな愛が、たくさんの人に届くのも愛だし、1人だろうと、2、3人だろうと、愛には制限がない…。

と、僕は思う。あくまでも、一つの考え方だ。

昔からこんな質問がある。

「年収1億円の人が2千万円寄付をして2000人分の薬と食料に供給するのと、月収15万の人が5万円寄付をして5人分の薬と食料を供給するとします。どっちが偉いでしょう?」

言うまでもないけど、年収1億円の人にとっての2000万は、収入の5分の1で、まだ残り8000万円ある。

月収換算でややこしいが、月収15万円の人にとっての5万円は、全財産の3分の1。しかも、その月の残高は5万だ。

ここに永久に答えは出ない。しかし、こういうこと考えることに意味があると思う。

そして、こういう話を聞いて、最も大事なことは、誰かの答えを聞いたり探すことではなく、

「自分はどうするか?」

ということ。常に自分に落とし込む。

例え誰かの回答を聞いても「いい話ですね」とか「勉強になりました」ではなくて、

自分はどうするか?
自分なら何ができるか?
そして、
自分はどう生きるのか?

ということに繋がると、自分自身を深めて行くことになる。

ちなみに僕は若い頃はずっと、上の質問には、

「そんなの、大勢を助けた方が偉いに決まってるだろ!だから、大金稼いで、いかに多くの人を救えるかに価値がある!」

と答えていたし、実際にいつも「もっと大きく、もっと多く、もっと大勢に!」と、切に願っていた。そんな生き方をしていた。

でも、今では違う。

むしろ少ない中でも、自己犠牲や奉仕を払う人の精神の高潔さや純粋さを尊重する。

社会的には確かに、悪どい稼ぎ方だろうと、税金対策の寄付金でも、もちろんそれで助かる人がいるのはわかるし、社会的には大いに善行であることは間違いない。

しかしそこにどれくらいの愛はあるだろうか?

何度も言うが“僕はそう思う”というだけで、これが真理や真実として、正しいわけではない。何が正しいかは、あなたが考えるべきだ。

ただ、僕は自分自身に対して「変わったなぁ」と思う。昔はこういう考え方はできなかった。

それは歳をとったからかもしれないし、身の丈を知り、身の程を知り、自分の性質や資質を知ったからかもしれない。

社会とか、目に見える結果や成果よりも、「その人の愛」の深さには、人間として、いや、壮大な規模になるけど、宇宙にとって価値があると思うから。

ところで先日、久しぶりに、イベントで人前で歌を歌った。10人弱だったけど、人前でギターを弾いて歌ったのは、2年ぶりくらいかな?

それまではしょっちゅうライブイベントをやっていたんだけど、ある時気づいたのは、

「あ、俺は別に、人前で歌いたいわけではないんだ…」ということ。

目立ちたい!認められたい!大勢にインパクトと影響を与えたい!という欲求が、自分のハートから来たものではなく、さまざまな影響の結果、そう“思わされていた”のだと気づいたのだ。

いつも、僕の目線は目の前よ「人」よりも、自分を漠然と包み込む、実態のない「社会」に向けていたのかもしれない。

現状を肯定するためのこじつけではなく、今実際に、個人セッションなど、社会ではなく、1対1の個人としては人と向き合うようになってから、その難しさと共に、その喜びも感じている。

そして、大切なことはなにか?という問いかけに対し、答えを深めている最中だ。

これはあくまでも僕の話であり、その人の傾向や性質もあるだろうし、時期的な物もあるだろうと思う。

広がりを見せる時期もあれば、集中する時期もある。社会的な取り組みが大切な時期もある。

もちろん、多数を前にワークショップやセミナーをしたり、歌を歌ったりも楽しいし、こうして不特定多数に向けて、文章や動画でメッセージを伝えるのも楽しい。

ただ、今はより「face to face」の関係を作りたいと思うし、おそらくこれからの時代、多数の原理より、個人と個人の原理、関係性が、次の時代を生きるキーワードになると思う。

その根拠?理由?

わからない。ただの勘だ。

誰かリーダーやカリスマといった、能力の高いものが、大勢を引っ張る、みたいなものではなく、まずはより「個人」の自立、そして、自立した個人同士の繋がりが、進化の鍵になる、そう感じている。

多数の構造は、どうしたってヒエラルキー(階級)と、ピラミッド構造、男性的なシステムを生み出す。

だから、誰かに追従したり、すごい人にあやかろうとするのではなく、不器用でも、つたなくてもいいから、自分を生きることが大事であり、その上で、足りない部分を補い合える関係性と共同創造。そのためのface to face。

最近の、「face to face」で関わった人たちの感想をいくつか。

心身統合継続セッション

こちらはヒーリングの感想も。

「言語化できない」

これが正直な感想だと思います。

なんでも言語化できると思われていて、言語化が正しく、最良なことと思われている現代。

しかし、大事なことほど、言葉にはならないのです。


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