不調な人は、だいたい元気[エッセイ]

彼は朝からずっと、どこか壊れているような顔をしていた。
熱があるのか、頭の奥で小さな機械が狂ったように鳴っているのか、どこがどう悪いのかは最後まで曖昧だったけれど、不調だけは確実で、それは部屋の空気を重くするには十分だった。
不調な人間というのは、なぜあんなにも口が達者になるのだろう。
元気な時より、よほど元気そうに怒る。
「だからさ、なんでそういう言い方しかできないの」
「体調悪いんだから、察してよ」
「察してって、便利な言葉だよなぁ」と、心の中でつぶやく。
私はコップを洗いながら、音が大きく響かないよう、指先に集中した。
水道の音より、彼の機嫌のほうがよほどうるさかった。
「大人しくしてればいいのに」
思わずそう言うと
「大人しくできるなら、最初からこんなふうに壊れてないよ」
その一言だけが妙に正しかった。
正しくて腹が立つほどだった。
体調が悪い人は、弱っている。
弱っている人は、優しくされるべきだ。
たぶん、それは本当だ。
でも、弱っている人が必ずしも静かとは限らない。
むしろ静かになるどころか、なぜか攻撃の準備だけは丁寧だったりする。
私はスポンジを握ったまま、暫く考えた。
人は不調になると、体だけでなく、心まで少し熱を出すのかもしれない。
「ねえ」
彼が言った。
「怒ってる?」
「ううん」
本当は少し怒っていた。
でも、怒りを飲み込んだのは、彼のほうが先に飲み込めないほど騒がしかったからだ。
「じゃあ、よかった」
そう言って、彼はまた咳をした。
その咳は、同情を求める音にも、勝利の合図にも聞こえた。
私は水を止めた。
シンクの中の泡は、素知らぬ顔で静かだった。
「そんなに具合が悪いなら、寝たら?」
「寝たら、君に何も言えなくなるでしょ」
私はその答えに、少しだけ笑ってしまった。
たしかに、元気だった。
不調なのに元気。
不思議だけれど、たぶん人間は大体そういうものだ。
壊れかけたところほど、なぜかよくしゃべる。
静かな台所にマグカップだけが倒れている。
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あとがき
「具合が悪いときくらい、おとなしくしてくれたらいいのに」
そう思いながらも、結局は相手のペースに巻き込まれてしまう時があります。
不器用で、ちょっとめんどくさくて、それでもなんとなく憎めない。(とはいえ限度というものはありますが)
人が誰かに弱音を吐けるのは、結局のところ、そこが安心できる場所だからなのかもしれません。
今日もどこかで、そんな賑やかな看病と、小さな呆れが繰り返されているのだろうかと、もしもそんな人がいたら、さっきよりも少し気をゆるめて、呼吸がしやすくなればいいな、と思っています。
