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「あなた絶対A型でしょ?」と言われ続けた私が、18歳で「B型」だと知って肩の力を抜けるようになるまで

イントロダクション ── 18年間、私は「完璧なA型」だった

まずは、ひとつのミステリーから話を始めたいと思う。

私は18歳になるまで、自分自身を「純度100%のA型」だと信じて疑わなかった。そして恐ろしいことに、周囲の人間も、そして私自身も深く納得するほど、私の行動や性格、思考の癖に至るまで「見事なまでにA型そのもの」だったのだ。

学校のノートの取り方は几帳面そのもので、カラーペンを使い分けて美しいレイアウトを追求する。スケジュール管理を怠らず、提出物の締め切りは絶対に破らない。部屋の整頓やグループワークでの役割分担でも、常に「全体を滞りなく回すための気配り」に心を砕いていた。

周囲から「あなたって本当に真面目でしっかりしているわね。やっぱりA型でしょ?」と言われるたびに、私は「ええ、まあ」と少し誇らしげに、けれど謙虚な微笑みを返していたものだ。

現代の医学や科学の視点から見れば、血液型と性格の間に直接的な因果関係がないことなど常識である。しかし、当時の私の存在は、どう見ても「A型という型」に寸分違わずハマりきっていた。

ここでひとつの大きな問い(ミステリー)が立ち現れる。
なぜ、科学的根拠のないはずの血液型占いが、これほど完璧にひとりの人間の性格や行動パターンを再現・固定化させることができたのだろうか?

その不気味なカラクリが鮮やかに解き明かされたのは、高校3年生の終わりが近づいたある日、校庭の片隅にぽつんとやってきた一台の献血車の中だった。

事件編 ── 献血車と「消えたA型」

高校生活の終わりが近づいたある日、軽い好奇心と「献血くらいしておくのが優等生だろう」という謎の義務感から、私は献血車で腕をまくった。

それからしばらくして、実家に届いた一通のハガキ。
そこに印字されていた私の本当の血液型を見た瞬間、私は自分の目を疑った。

そこに書かれていたのは――「B型」
A型でもなく、O型でもなく、まさかのB型。

「……えっ?」
ハガキを持ったまま、私は部屋で呆然と立ち尽くした。18年間積み上げてきた私の「A型としての歴史」が、たった一文字のアルファベットによって一瞬で否定されたのだ。

だが、本当に恐ろしいのはここからである。
「自分はB型だった」と認識したその数十秒後から、私の行動パターンが劇的に変わり始めたのだ。

「なんだ、私はB型だったのか」と思った途端、あれほど私を頑なに縛り付けていた「几帳面でいなければ」「完璧にやらなければ」という自制心が、まるで不具合を起こした機械のようにカラカラと音を立てて停止した。

「私はB型なのだから、多少大雑把でもいいじゃないか」
「B型なんだから、マイペースで当然だ」

身体の生化学的なデータ(血液)は何一つ変わっていない。私の血管を流れる赤血球もDNAも、ハガキを開く1秒前と何の変化もないのだ。変わったのは、ただ「自分が自分に付与した言葉(ラベル)」だけである。

考察編 ── 人間は「ファクト」ではなく「フィクション」で動く

この「事件」が教えてくれたミステリーの真相は、実にシンプルで、かつ人間の深層心理の恐ろしさを物語っていた。

18年間の私が几帳面で真面目だったのは、私がA型の血液を持っていたからではない。「あなた絶対A型でしょ?」という周囲からの刷り込みと、「私はA型だ」という自分自身への強力な自己暗示が、私の中に『A型としての行動』を強制的に生成させていたのだ。

哲学の世界では、人間は客観的な「ファクト(事実)」によって直接動かされているのではなく、自らや他者が構築した「フィクション(物語・言葉)」の意味付けによって行動を決定する生き物だと言われる。

私は「A型=几帳面で真面目な優等生」という言葉の物語を忠実に生き、その台本通りに演技を続けることで、「本当の自分とは何か」「自由になってもいいのか」という根源的な不安から逃げていたのだ。哲学者のサルトルが言った「悪しき誠実(mauvaise foi)」――自らの自由な可能性を否定し、社会から与えられた配役になりきってしまう態度――そのものを地でいっていたわけである。

言葉が人間を作る。

「私はこういう人間だ」というラベルを一度貼り付けてしまうと、人間の脳はそのラベルに合致する証拠ばかりを収集し、ラベルに沿った行動ばかりを自動選択するようになる。そして、そこから外れる本来の自分を排除しようとするのだ。18年間の私は、血液型というフィクションが作り出した劇場の「健気で優秀な役者」に過ぎなかったのだと気づかされた。

解決編 ── 「100%の力み」に直面したときの処方箋

「B型」という真実を知ってからの私は、すっかり心の呪縛が解け、大学生になると献血ルームに通うのがちょっとした楽しみになった。お菓子やジュースを遠慮なくいただき、「B型」とでかでかと書かれたアクリルキーホルダーをもらっては、「これ、カバンに付けるには主張が強すぎるな(笑)」と困惑しつつも、「これがB型として生きる自由か」とほくほくした気持ちで帰路についたものだ。

……が、人間というものはそう簡単に完璧な自由を手に入れられるわけではない。
大人になり、研究や仕事、社会的な責任に向き合う中で、私は時折、またあの「100%の力み」に捕まってしまうことがある。

「もっと完璧に成果を出さなければ」「期待に応えなければ」「失敗してはならない」と自分を極限まで追い込み、呼吸が浅くなり、息が詰まりそうになる。長年間違えて身につけてしまった「A型風の演技」が、プレッシャーとともに無意識に自動発動してしまうのだ。

そんなとき、私はあの18歳の日のハガキの衝撃と、使い道のないB型キーホルダーのシュールな姿を思い出すことにしている。

「待て待て、何を演じているんだ。私はB型なんだから」
「自分は本来、マイペースなB型なんだ」と言葉のラベルを貼り直す(リラベリングする)。すると、ピンと張り詰めていた心の糸がふっと緩み、肩の力を抜いて「自分自身の心地よいペース」を取り戻すことができるようになる。

私にとって「B型であること」は、生物学的な分類ではない。頑張りすぎそうになったとき、自分を「他人が作った期待の枠組み」や「過度な責任感」からそっと解放するための、言葉の安全装置であり、しなやかに生きるための実践的な知恵なのだ。

おわりに ── 自分を縛る劇本を破り捨てる

私たちは毎日、「私は不器用だから」「私は人見知りだから」「私は完璧主義だから」といった、自分で無意識に貼ってしまったラベルという劇本の通りに、健気にも自分を演じ続けているのかもしれない。

けれど、もしその役柄があなたを苦しめ、息苦しくさせているのだとしたら、いつでもその劇本は破り捨てて、ラベルを貼り直していいのだと思う。

真面目になりすぎて身動きが取れなくなったときは、「まあ自分はB型だしな(あるいは、今日はそういう役をお休みする日だな)」と原点回帰してみる。そんな風に言葉を自分に都合よく乗りこなしながら、誰かの作った評価軸ではなく、自分にとって本当に心地よいQOL(生活の質)を自分で定義して生きていきたい。

私を「言葉の呪縛」から解き放ち、人生を自分のペースで泳ぐ自由をくれたあの日の献血車には、今でも心から感謝している。


💫みなさんは、「自分はこういう人間だ」と思い込んでいたラベルや言葉から解放された体験はありますか?あるいは、頑張りすぎてしまったときに自分を緩めてあげる「おまじないの言葉」があれば、ぜひコメントでお聞かせください!

コングラいただきました。ありがとうございます😭

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