遠き日の立体魔法|第1話 バレーボール|第一章 空に座標
Laed:アイ
誰かが跳べる場所なら、分かると思っていた。
だから私は、人の心にも「正しい場所」があるのだと
信じていた。
プロローグ
二〇二六年、五月。
研究室の窓は少しだけ開いていた。夕方の風が、机に積んだ論文の端をかすかに揺らしている。文化人類学、儀礼論、親族構造。半分だけ残ったコーヒーは、もう冷めていた。
私はノートパソコンを閉じ、椅子の背にもたれた。一日中、人間について書かれたものを読んでいた。人はなぜ集まり、なぜ同じものを信じ、なぜ役割を引き受けるのか。そんなことを、私は二十年近く考えている。
研究室の隅では、タブレットからバレーボール中継の音が流れていた。学生に勧められた国内リーグの録画で、最初は流し見のつもりだったのに、気づけば何度も手が止まっていた。
スパイクが決まれば観客席が揺れる。選手たちは抱き合い、ベンチが立ち上がる。けれど私の目は、いつもその少し前を追ってしまう。
崩れたレシーブの下へ、セッターが滑り込む。床へ落ちるはずだったボールが指先に触れた瞬間、別の方向へ向きを変え、誰もまだいない空間へ静かに浮かんでいく。そこへスパイカーが跳び込む。
私は画面を一時停止した。
宙に浮いたボールが、そこで止まった。額の上に両手を掲げたセッターを見ていると、二十年前より、さらに昔の体育館の匂いが戻ってきた。
「なあ、愛子。バレーボールって、結局、立体座標を取るスポーツなんじゃねえかな」
兄の聡がそう言ったのは、私がまだ小学生の頃だった。近所の市民体育館で男子の練習が終わったあと、兄はよく私にボールを触らせてくれた。
「立体座標?」
当時の私には、ほとんど意味が分からなかった。兄はそんな私に向かって、ボールを軽く投げた。
「ボールって、必ずどこかに落ちるだろ。だったら落ちる場所を読む。そこへ先に入る。それで、落ちるはずだったボールに次の行き先を与える」
一度目は失敗した。慌てて両手を出したせいで、ボールは指に当たって横へ逃げた。兄は転がったボールを拾いながら、「今のは点がずれてる」と笑った。
「ボールの点と、お前の点。それから、次に置きたい点。その三つが合わないとトスは死ぬ」
もう一度、兄が投げた。今度は落ちてくる場所が少しだけ分かった。そこへ足を運び、両手を上げる。指先に触れたボールは、体育館の白い照明へ向かってふわりと浮いた。
きれいなトスではなかった。それでも兄は少し目を細めた。
「いいじゃん。今、お前、宙に点を置いた」
その言葉だけは、ずっと残った。
兄は、セッターを一番面倒な役だと言った。自分で最後の一点を決めるわけではない。でも、誰かが跳べる場所へボールを渡すことはできる。
「誰かの才能に、正確な座標を渡すんだ。そこへ迷わず飛び込めたら、それはもう、ちょっとした魔法だろ」
魔法。
立体座標より、その言葉の方が私には分かりやすかった。杖も呪文もいらない。落ちてくる場所を読む目と、そこへ入る足と、宙に点を置く指先。それだけで、落ちるはずだったボールに別の未来を与えることができる。
私は長い間、それを信じていた。
ボールの落下点なら読める。人の助走も、肩の開きも、踏み切りの癖も、何度も見れば分かる。ならば、人の心にもきっと座標があるのだと思った。
怒りにも、悲しみにも、罪悪感にも、沈黙にも、それがどこから落ちてきて、どこへ向かおうとしているのかという軌道がある。正しく読んで、正しい場所へ置き直せば、人はもう一度跳べる。
十六歳の私は、愚かなくらい真剣にそう信じていた。
タブレットの再生ボタンに触れると、止まっていた時間が動き出した。トスが上がり、スパイカーが跳ぶ。その歓声の奥から、二十年前の体育館の匂いが戻ってくる。
ワックス。汗。サロメチール。古くなったボールの革。
そして、練習が終わるのを待つように、スポーツバッグの中で点滅していた、小さな赤い光。
第1話 バレーボール
二〇〇五年、九月。
蒼泉大附属高校の体育館には、まだ夏の熱が残っていた。窓を半分開けても風は弱く、床を擦るシューズの音と、ボールが壁へ当たる音、隣の半面から飛んでくる男子バスケ部の掛け声ばかりが跳ね返っていた。
女子バレーボール部、二十六人。六月に三年生が引退して、私たち二年生の代になって三ヶ月が経っていた。
そして私は、主将になっていた。
「はい、次。もう一本」
声を出すと、一年生たちが返事をした。「はい」「はいっ」「……はい」。同じ言葉なのに、それぞれ少しずつ温度が違う。疲れている子、緊張している子、早く終わってほしいと思っている子。
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