音楽は、知らない人を「仲間」にする
吹奏楽ジョイントコンサートIn加西
境 界線ノート|ランポのさんぽ
散歩をしていると、
たまに、
「ここから先は、知らない場所だな」
と思うことがある。
道が一本変わっただけ。
橋を一本渡っただけ。
市境を越えただけ。
それなのに、
なんとなく空気が違う。
人には、
見えない境界線が
あちこちにある。
住んでいる場所。
年齢。
仕事。
学校。
趣味。
そして、
「知っている人」と
「知らない人」。
でも。
音楽が鳴り始めると、
その境界線が、
少しだけおかしくなる。
2026年8月30日。
兵庫県加西市で、
吹奏楽ジョイントコンサートが開催される。
集まるのは、
六つの楽団。
社吹奏楽団。
滝野シンフォニックバンド。
三木市吹奏楽団。
小野吹奏楽団。
三木L・U吹奏楽団。
そして、
加西市吹奏楽団。
六つ。
それぞれに、
指揮者がいる。
それぞれに、
楽団の歴史がある。
それぞれに、
「この音を届けたい」という思いがある。
そして、
それぞれが違う曲を演奏する。
「BACKSTAGE PASS」
「DISNEY AT THE MOVIES」
「美女と野獣」
「ハリーの不思議な世界」
「スーパーマリオブラザーズ」
「Foster Song Book」
「HOLLYWOOD MILESTONES」
「MERCURY」
「梁塵秘抄~熊野古道の幻想~」
そして、
「レ・ミゼラブル」。
こうして並べてみると、
なんだかすごい。
ディズニーから、
マリオ。
ハリー・ポッターから、
ハリウッド。
フォスターから、
熊野古道。
吹奏楽という一つの器に、
いろんな世界が入っている。
まるで、
音楽版の大きなおもちゃ箱だ。
しかも、
最後には、
そのおもちゃ箱を、
六つの楽団でひっくり返す。
合同演奏。
六つの楽団が、
一つになる。
ここが、
僕は好きだ。
六つの音が、一つになる
普段なら、
「社吹奏楽団は社」
「加西市吹奏楽団は加西」
「三木市吹奏楽団は三木」
というように、
それぞれの場所で活動している。
もちろん、
それぞれの楽団には、
それぞれの「色」がある。
でも、
ステージに並んだ瞬間、
「どこの楽団?」
という境界線より、
「一緒に音を出している」
という事実のほうが、
大きくなる。
これって、
人間も同じなのかもしれない。
普段は、
「あの人は知らない人」
「あの人は別の地域の人」
「あの人とは接点がない」
そんなふうに、
勝手に線を引いている。
ところが、
一緒に歌ったり。
一緒に笑ったり。
一緒に歩いたり。
一緒に何かをつくったりすると、
「あれ?」
となる。
さっきまで知らなかった人が、
なんだか少し近くなる。
音楽には、
その速度がものすごく速い。
一音鳴っただけで、
隣の人と同じ場所に立てる。
音楽は、記憶を連れてくる
ディズニーの曲を聴けば、
映画のワンシーンを思い出す人がいる。
マリオなら、
子どもの頃に夢中になった時間が蘇るかもしれない。
ハリー・ポッターなら、
魔法の世界へ戻っていける。
レ・ミゼラブルなら、
舞台の歌声を思い出す人もいるだろう。
音楽って、
ずるい。
何十年も前にしまった記憶を、
何の許可もなく、
突然引っ張り出してくる。
しかも、
「覚えてる?」
なんて聞いてこない。
ただ、
鳴る。
それだけ。
すると、
こちらの心が勝手に、
「ああ、これ知ってる」
と答えてしまう。
知らない人同士でも、
同じ曲を知っている。
それだけで、
少し笑える。
それだけで、
少し話せる。
それだけで、
同じ時間を共有できる。
最後に、境界線がなくなる
そして、
コンサートの最後。
六楽団合同吹奏楽団による演奏。
「日本を勇気づける名曲メドレー」
そして、
「宝島」。
六つの楽団が、
一つの音をつくる。
考えてみれば、
これはなかなか面白い。
最初は六つだったものが、
最後には、
一つになる。
でも、
六つの楽団が消えるわけではない。
社吹奏楽団は、
社吹奏楽団のまま。
三木市吹奏楽団は、
三木市吹奏楽団のまま。
加西市吹奏楽団は、
加西市吹奏楽団のまま。
違いをなくすのではなく、
違うまま、一緒になる。
これが、
地域交流の面白さなのかもしれない。
同じ人になる必要はない。
同じ考えになる必要もない。
同じ場所に住む必要もない。
ただ、
「一緒に音を鳴らす」
それだけでいい。
市民演奏会という、小さな奇跡
そして
市民演奏会というものに、
少し特別な魅力を感じる。
プロの演奏とは、
また違う。
そこには、
仕事だけではない時間がある。
仕事が終わってから練習した人。
休日に楽器を抱えて集まった人。
何度も同じ場所を繰り返した人。
うまくいかない日もあっただろう。
それでも、
今日の一音のために、
また楽器をケースから出す。
その時間が積み重なって、
ステージの上で音になる。
だから、
客席で聴いているだけでも、
その向こう側にある時間まで、
少し見える気がする。
音の向こうに、
人がいる。
楽譜の向こうに、
生活がある。
そして、
一つの曲の向こうに、
誰かの人生がある。
そう思って聴くと、
同じ「宝島」でも、
ちょっと違って聞こえるかもしれない。
境界線の向こうから
人間は、
どうしても境界線をつくる。
こちら側。
あちら側。
自分たち。
あの人たち。
知らない人。
知っている人。
でも、
音楽は、
そんな線をあまり気にしない。
壁があっても、
音は越えていく。
市境があっても、
音は越えていく。
世代が違っても、
音は届く。
そして、
六つの楽団が一緒になったとき、
「ここからが自分たち」
という線は、
少しだけ薄くなる。
僕は、
そういう瞬間が好きだ。
境界線が消える瞬間というより、
境界線があることを、
一瞬だけ忘れられる瞬間。
そのほうが、
なんだか人間らしい。
2026年8月30日。
加西の街に、
六つの楽団の音が響く。
一つひとつ、
違う音。
違う曲。
違う人。
違う場所。
それでも最後には、
一つの音楽になる。
さて。
その音を聴いた人の心には、
どんな景色が残るのだろう。
僕ならきっと、
帰り道に少しだけ遠回りをする。
音楽の余韻を、
散歩させるために。
そして、
ふと思う。
人と人の間にある境界線も、
こんなふうに、
一緒に笑って、
一緒に聴いて、
一緒に何かを感じるだけで、
少しずつ薄くなっていけばいいのにな、と。
音楽は、
境界線を壊さない。
ただ、
その線の向こう側にいる人を、
「知らない人」から
「同じ音を聴いた人」へと、
そっと変えてくれる。
それだけで、
世界は少し近くなる。
たぶん、
それが市民演奏会の、
いちばん素敵なところなのだと思う。

