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『透明な返却』

『透明な返却』

図書館の返却口には、
夜のあいだだけ、少し海に似た匂いが溜まる。
理由を知っている人はいない。
二十三時四十分。
閉館から三時間後。
女は、返却期限を六日過ぎた文庫本を、
静かに差し入れた。
機械の奥で、
硬いプラスチックの音がする。
それだけだった。
怒られもしない。
誰とも会わない。
なのに彼女は、
なぜか「見つかった」と思った。
入口横の掲示板には、
来月で撤去される椅子の知らせ。
長く座られすぎて、
脚部に歪みが出たらしい。
彼女は、その椅子に一度だけ、
誰かと並んで座った記憶がある。
会話は、ほとんど思い出せない。
ただ、
相手がページをめくる速度だけは、
今でも身体が覚えている。
速くもなく、遅くもなく、
こちらの呼吸を少しだけ乱す速さ。
返却口のランプが、
一瞬、緑に変わる。
受理。
それを見た途端、
彼女は急に、自分が何かを終わらせた気になった。
本を返しただけなのに。
外へ出ると、
夜風が、アスファルトの熱をゆっくり剥がしていた。
遠くで、電車が通過する。
見えない。
音だけが、街の奥を滑っていく。
彼女は歩きながら、
返した本の題名を思い出そうとした。
最後まで、思い出せなかった。

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