見出し画像

日本の放送百年百局 6 JOOR(新日本放送)

戦前の実験放送局

●大阪毎日新聞社は、大阪朝日新聞社とともに大正時代から放送局設立に熱心で、JOBK(社団法人大阪放送局)開局の二ヶ月前、1925年4月18日から一ヶ月間にわたり、堂島の毎日新聞社から本格的な公開実験放送を実施した。
 この放送に対しては、全国はおろか、遠く樺太沖を航行する船からも受信報告の電報が届くほどの評判で、ニュースや相場実況の他に、歌舞伎や音曲、演芸などがたっぷりと散りばめられた豪華なバラエティ編成であった。
 人気芸能人がぞくぞくと出演し、大阪市内の「三越、大丸、十合、高島屋」の四大百貨店に置かれた受信機から流れる、中村雁治郎と松本幸四郎による「勧進帳」や、豊竹呂昇の女義太夫「壷坂霊験記」、桂春團次の「八問答」などに人々は心を躍らせた。加えて和洋の音楽、レコード演奏とともに実に豪華バラエティ構成であり、東京でもJOAK開局以前に幾つか実験放送は行われたが、これほどまで豪華なものはなかった。(このころ、朝日新聞社も大阪や東京で同様の公開実験放送を実施した)
 戦後、東南アジアの戦線から帰国した毎日新聞社社員・高橋信三は、前線でみた電波の威力に感じ入るとともに、日本放送協会の独占であった放送事業が戦争を後押ししたことなどに注目し、終戦の翌月から有志とともに民間による新たな放送ネットワークづくりについての研究を開始した。
 毎日新聞社などを申請主体として早期から放送局開設の申請もおこなわれたが、連合軍総司令部(GHQ)からの「時期尚早」との判断でなかなか実現への道は開かれなかった。
 しかし、日本放送協会職員によるストライキ停波などがあったことで、GHQも日本政府も協会の独占状態の弱さを認識し、都道府県単位でのローカル局規模での民間放送の申請を受け付けるようになった。実際には都道府県単位のローカル局を複数申請するネットワーク型放送局の申請もあり、毎日新聞社からは、大阪に新日本放送(NHKに対する新しい日本の放送局という意味)、東京にラジオ日本、福岡にラジオ九州など、ブロック単位のネットワーク幹事局を申請。そこから県単位のネット局をつらねてゆく構想を立ち上げた。この計画は当初「RAPPON」と呼ばれた。
 しかし、大阪・東京ではライバル申請社とチャネルの奪い合いとなり、大阪ではついにGHQの判断もあって、新日本放送(NJB)と朝日放送(ABC)の両局に免許がおろされ、東京ではラジオ日本(毎日)、朝日放送、読売放送、東京放送(電通)の4局を一本化した「ラジオ東京」に免許が与えられた。
 新日本放送は、開局時は、堂島の毎日新聞本社ではなく、大阪・梅田の阪急百貨店の屋上に架設された上屋を仮局舎としたため、新聞社とのやり取りや、百貨店閉店後の出入りなどに苦労はあったが、百貨店を訪れる人々を対象とした宣伝効果があり、かつ、店内施設を用いた公開番組などもおこなわれた。

画像1

 NJBも、同年11月に開局した朝日放送(ABC)も「大阪をキーとした全国放送網」を狙っていたという点に注目したい。両局とも東京支社を強化して、東京・大阪いずれの出演者でも自由に番組を組むことができる体制をとった。
 また、NJBは、開局直後から唄と漫才のバラエティ「お笑い横丁」で、当初のライバルであるNHKを打ちのめし、トニー谷司会による「アベック歌合戦」で優勢を誇った(その後テレビ番組化)。「あんたのお名前なんてぇの」はラジオから生まれた流行語だったのだ。
 また、NJBはリスナーが直接参加できる公開放送番組で大ヒットを生み、ネット先の各地でNHKやABC制作の番組を圧倒した。
 最も有名な闘いは、NHKの大人気番組「素人演芸会のど自慢(現在のNHKのど自慢)」と、NJB制作の民放ネット番組「金の歌銀の歌~職場対抗のど自慢~」(1953年)の対決だろう。これはその後NHK「三つの歌」対NJB=文化放送による「素人ものまねコンクール」(1954年)、NHK今週の明星対NJB=文化放送「素人ジャズのど自慢」(丹下キヨ子司会。1954年)などさらに戦線を拡大させた。その後も「素人自慢」モノを充実させ、西條凡児司会の「素人名人会」(1960年。のちにテレビに)、「浪花節天狗道場」(1956年)、おばあちゃん専門の歌番組「おばあちゃんと一緒」(1960年。名古屋CBCと交互制作)、そしておなじみ「明色アベック歌合戦」(1961年)が登場する。この番組はトニー谷司会でのちにテレビ番組になった。公開録音の舞台に神主姿で登場するトニー谷が「出場者をサカナにした奇妙な祝詞」をあげる、というのが最初のスタイルであった。ラジオ時台に流行した「あんたのお名前なんてぇの」という流行語はテレビでもヒットした。

設立の経緯

1949.12 毎日新聞社 京阪神急行電鉄 南海電気鉄道が中心になって創立事務所開設

1950.12.27: 新日本放送株式会社設立(1958.6.1:「株式会社毎日放送」に)
1951.4.21:予備免許
1951.7.21: 有力広告主への説明会(阪急百貨店大食堂)
1951.7.8 22.00-22.30 試験電波発射(戦後、民間放送初)
監理局の指示によりアナウンスは「NJB」と「JOOR」のみ。あとはレコード音楽だけ。
12日、26日にも実施。
1951.8.15:サービス放送開始
コールサインJOOR、出力10KW、周波数1210KC
サービス放送の内容
 12.00 14.00 16.00 18.00 20.00から各1時間放送
 毎日新聞社提供のニュースと音楽。
 初日:大淀区の市立長柄宿泊所で開催の盂蘭盆会の実況を録音中継
 25日:午前11時より開業式(1スタにて)。
 出席者:大阪財界、政界、学界有力者、創立関係者、総司令部メレディスラジオ課長、岡咲電波監理委員他
 アトラクションとしてNJB効果団の実演、辻久子バイオリン独奏等
 27日:サンフランシスコ講和会議全権団に対する記者インタビュー(首相官邸)を録音中継
 毎日新聞社の写真電送線を介して東京から送出された
 29日:西宮球場で放送前夜祭(19.00)
 社長挨拶、高砂中学800人のハーモニカオーケストラ
 スポット祝辞 春日野八千代、大阪駅長田中氏、竹中郁、花月亭九里丸、ブレーブス選手
 漫才(いとし・こいし) 唄(野球ユニフォーム姿の笠置シヅ子による「ホームランブギ」ほか)
 中沢寿人とNJBジャズオーケストラの演奏
 クイズ「うっかりテスト」公開。
 交響曲「未完成」(シューベルト) NJB交響楽団・指揮古村一夫 
 但し、楽団員はマネだけをし、音声はオンエアされたものをスピーカーから会場に放送するという趣向。
 

1951.9.1ラジオ本放送初日の番組
6.00 「JOOR、みなさまの新日本放送でございます。」(坂本登志子アナ)
    以後、6.30までアナウンスを5分おきに繰り返す
11.58.50 「JOOR、新日本放送でございます。    
     周波数1210キロサイクルでお送りしております」(坂本アナ)
    つづいてNJB行進曲
11.59.30 開始アナ
「長らくお待たせいたしました。新日本放送はただいまから(以下略)」(皆川資雄アナ)
11.59.50 時報(提供:服部時計店)
12.00 ニュース
  15 軽音楽 NJB楽団(提供:関西電力)
12.30 東宝映画人ショウ(提供:東宝)
13.00 時報・N 05 投資家サロン
  25 交響曲第五番(ショスタコービチ)
14.00 時報・N 05 謡「翁」ほか 観世元世他
  25 軽音楽(アル・グッドマン楽団)
15.00 時報・N 05 漫才 松葉家奴・浜お龍
  20 室内楽(レコード)
(休止を挟んで)
17.00 時報・N
  05 杉社長挨拶
    祝辞 ファイスナー、片岡仁左右衛門、佐藤電通相
17.15 松竹映画人ショウ(提供:松竹)
  45 放送劇「鞍馬天狗」島田正吾ほか(明治製菓)
18.00 時報・N 05 寿式三番叟(提供:福助足袋)
18.35 話のオルゴール
  50 スターメロディ
   近江敏郎他 コロンビアABC楽団(提供:サンソ石鹸)
19.00 時報・N・スポーツN
 20 ラジオ・マンガ「デンスケ」(提供:大丸)
19.30 バイオリン独奏 辻久子 「からたちの花」ほか
20.00 時報・N 05 クイズ・フラッシュ
20.30 放送劇「日々新たなり」
   市川八百蔵、市川団四郎他(提供:松下電器)
21.00 時報・N
 05 演芸
   浪曲ものまね(前田勝之助)、落語(痴楽)(提供:日本ゴム)
21.45 ニュース解説 加藤三之雄
二日目も開局記念放送。正午開始。9月3日より朝の放送開始


いいなと思ったら応援しよう!