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ヒロイック構造の罠とオタクの心得

さて、前回の投稿でAI疑惑を持たれた私ですが、日々猫を吸いながらタイピングしている生身の人間です。

なぜ前回の投稿がカッチコチの文体になったのか、少し言い訳させてほしい。

──元のnoteがヤバい(褒めてる)くらいに巧妙だったからなんですよ。

あの手の動員文に対しては、怒りや正義感で気持ちよく殴り返した瞬間に、相手の脚本上の悪役になってしまって、それこそ相手の「計画通り」になるんです。

だからカチコチに武装するしかなかった、という話です。

そもそも考えてみてほしい。
AIっぽいとは何か。(ろくろを回す手つき)

AIは、我々人類が積み重ねてきた優れた文体を億単位で学習し、それっぽく生成している。(マジで指示によってはそれっぽい上滑りの文体になる)

つまり、AIの文章が整っているのは、我々人類の文章が優れているからである。
そう考えると、私はただ、そこそこ整った文章構成が書けているだけなのではないか、と自惚れてみたりする。

私は決してAIではない。
信じてください。本当なんです。
しがない物書きなんです。
角川スニーカー文庫が青春でした。

あっ、またAIっぽく書いているって?
やだなぁ。今回はちゃんと緩く書いていますよ?

というわけで(?)、今回は前回少し触れた「ヒロイック構造」について、もう少し掘り下げてみたい。


前回の記事では、「政治の話ではありません。命と尊厳の話です」という言い換えが、政治的主張への距離感や反論を封じる方向に働くのではないか、という話をした。

その中で私が特に気になっていたのが、いわゆるヒロイック構造である。

ヒロイック構造とは、ものすごく雑に(本当にすごく雑に)言えば、
「危機に気づいた自分たちが、まだ気づいていない人々を目覚めさせ、巨大な悪に立ち向かう」という物語の型だ。

平穏に暮らしていた私たち。
しかし、世界には隠された危機があった。
それに気づいてしまった少数の人々がいる。多くの人はまだ眠っている。
だから、私たちが声を上げなければならない。
今ならまだ間に合う。
一緒に立ち上がろう。

こう書くと、だいたいRPGの導入である。

村で平和に暮らしていたら、突然王様に呼ばれて「世界は闇に覆われつつあるのだ……」と言われるやつ。しけた軍資金と布の服とひのきの棒で旅に出されるやつ。

これが物語としては、最高に気持ちいい。

なぜなら、自分がただの傍観者ではなく、世界の真実に気づいた側になれるからだ。

誰かを救う側になれるし、大きなものに抗う側になれるからだ。

(中二病じゃん?と思ったそこのあなた。あなたはヒロイック構造をまだご存知でない。これは中二病より厄介です)

これは創作の中では、とても強い感情を生む。
少年漫画でも、RPGでも、ディストピアSFでも、革命ものでも、この構造は読者を熱くさせる。
巨大な権力。隠された真実。少数の抵抗者。まだ目覚めていない人々。希望を捨てない仲間たち。

嫌いな人の方が少ないのではないかと思う。少なくとも私は嫌いではない。

ただし、この構造が現実の政治や社会問題に接続された時、話は少しややこしくなる。

現実には、魔王が一人いるわけではない。
現実には、主人公側が常に正しいわけでもない。
現実には、生き別れの闇落ちした兄や妹も存在しない。
現実には、世界の真実に気づいた少数者だけが正しく、他の人は眠っている、という単純な構図でもない。

現実の問題は、法律、制度、予算、外交、安全保障、歴史、経済、報道、専門家の見解、複数の利害が絡み合っている。

だから本来は、かなり慎重に見なければならない。

けれど、ヒロイック構造に乗ると、それらが一気に整理されてしまう。

気づいた私たち。

まだ気づいていない人たち。

真実を隠す権力。

声を上げる仲間。

冷笑する人。

分断する人。

無関心な人。

こうして、複雑な現実が「目覚めた側」と「まだ眠っている側」の物語へ変わっていく。
ここが私がしきりに言う、この構造のヤバい点である。

誤解のないように言うと、私は政治的な発信そのものを否定したいわけではない。前にも書いたけど。
社会問題に関心を持つことも、声を上げることも、必要な場面はあると思っている。
デモ、署名、意見送付、SNSでの発信も、民主主義社会における正当な行動だ。
(FAXを大量に送りつけるようなやり方は、また別の問題だけど)

ただ、それが「物語」になった瞬間に、人はかなり危うい場所へ行くことがある。

どう危ういところに行くかも解説したい。


少し話が逸れるが、正直に言えば、私は自分のことを、かなりゆるい意味で保守寄りだと思っている。

その理由のひとつに、安全保障や戦争に対する感覚がある。

「戦争反対」と言われたとき、もちろん戦争に賛成したいわけではない。戦争など起きない方がいいに決まっている。小学生の頃、はだしのゲンや火垂るの墓、対馬丸にもトラウマを植え付けられた世代だからね。

けれど同時に、ミサイルは「戦争反対」と言ったところで、飛んでくる時は飛んでくるというのが私の持論でもある。

戦争は、どこか遠い戦地へ誰かが行く話だけではない。

こちらが望まなくても、私が住んでる街が戦場になるかもしれない。

そう考えると、「反対」と言うだけで何かを考えたことになるのだろうか、という違和感があった。

だから私は、反戦を強く訴える人たちに対して、かなり冷めた見方をしていたところがある。

もっと意地悪に言えば、「戦争反対って唱えたらミサイルが落ちてこないのかよ」「現実問題として無理があるだろ」と思っていたこともある。(今もちょっと思う)

今思うと、かなり雑な見方だったと思う。

もちろん、そう見えてしまう言動が存在しないとは言わない。

しかし、そこで「痛い人たちだ」と切って捨てると、見落とすものがある。

なぜ彼ら彼女らは、そこまで強い危機感を抱くのか。
なぜ趣味の場であっても、政治や社会問題を語らずにいられないのか。
なぜ「黙っていること」にまで罪悪感を覚えるのか。

今回あらためて考えてみて、これは特定の思想や性格の問題だけではないのではないかと思った。

むしろ、人間が「自分は危機に気づいてしまった側だ」と思った瞬間に入り込みやすい、物語の型そのものが罠なのではないか。

そして、その罠はリベラルだけのものではない。保守であれ、リベラルであれ、「自分は危機に気づいている側だ」と思った瞬間に、誰でも同じ構造へ入ってしまう可能性がある。

だから、明日は我が身なのだ。


では、なぜこの構造がオタクの場で特に強く作用するのか。

ここで関わってくるのが、推しや作品への感情だと思う。

ヒロイック構造はそれ単体でも強いが、そこに「好きなものを守りたい」という感情が重なると、さらに止まりにくくなる。

オタクは、物語を読むことに慣れている。

キャラクターの表情ひとつから内面を読む。

何気ない台詞から伏線を拾う。

世界観の歪みに気づく。

巨大な権力に抗う主人公を愛する。

誰にも理解されなくても、正しいことを貫くキャラクターに感情移入する。

この能力は、創作を楽しむ上ではとても豊かだ。物語を深く読む力でもある。

けれど、現実の政治情報や社会問題にその感受性がそのまま接続されると、少し危うい。

報道されないことが、隠された真実に見える。

複雑な制度変更が、巨大な陰謀の伏線に見える。

意見を保留している人が、まだ目覚めていない人に見える。

自分の発信が、世界を変えるための小さな一歩に見える。

もちろん、現実にも権力監視は必要だ。
報道されにくい問題もある。
市民の声が社会を動かすこともある。

そこは否定しない。

ただ、現実があまりにも物語の形を取りはじめた時は、一度立ち止まった方がいい。

それは本当に事実なのか。

どこからが推測なのか。

どこからが評価なのか。

反対意見や中立的な解説はあるのか。

「可能性がある」が「必ずそうなる」にすり替わっていないか。

自分は今、誰かを救う主人公になろうとしていないか。

推しや作品を守りたい気持ちも、ここに接続されやすい。

表現の自由を守りたい。好きな作品を楽しめる社会であってほしい。推しのいる世界を壊されたくない。推しならきっと、こんな社会に黙っていないはずだ。

その気持ちは分かる。
正直、かなり分かる。

けれど、推しや作品が「自分の政治的危機感の代弁者」になってしまうと、同じ作品を好きな他の人にとっては苦しくなる。

同じ作品を好きでも、現実の政治判断は人によって違う。

同じキャラクターを好きでも、そのキャラクターから何を受け取るかは違う。

それなのに、「この作品を好きなら、この危機感を共有するはず」となった瞬間、趣味の共同体は道徳共同体に変わる。

ここで反発が起きる。

政治の話をするな、という話ではない。
けれど、作品や推しやファンダムを経由して「あなたも当然こちら側に来るべきだ」と見えてしまうと、人は警戒する。

しかも、熱心に活動している人ほど、自分のためにやっているとは思っていない場合が多い。

弱い立場の人のため。

未来のため。

子どものため。

社会のため。

表現のため。

命と尊厳のため。

だからこそ止まりにくい。

自分の欲望なら、まだブレーキがかかる。けれど、「誰かのため」「正義のため」「未来のため」になると、ブレーキを踏むこと自体が裏切りのように感じられてしまう。

ここが、ヒロイック構造の怖いところだと思う。

本人に悪意があるとは限らない。
むしろ、出発点は善意や誠実さであることが多いのだと思う。

困っている人がいる。

不正がある。

差別がある。

戦争がある。

社会が壊れるかもしれない。

だから何かしなければならない。

その感情自体は、決して笑われるべきものではない。

ただ、その感情が物語の形を取りはじめた時、私たちは自分が誰かの距離感や判断権を踏み越えていないか、確認する必要がある。


では、ヒロイック構造に気づいた時、どうすればいいのか。

たぶん、いきなり正しさを捨てる必要はない。
熱意を冷笑する必要もない。
自分の中にある「何かしなければ」という感情を、なかったことにする必要もない。

ただ、その感情が物語の形を取りはじめた時に、一度だけ立ち止まる。

私は今、何を怖がっているのか。

私は今、誰を救いたいと思っているのか。

私は今、誰を「まだ分かっていない人」と見なしはじめているのか。

私は今、自分の言葉に乗らない人を、少しだけ低く見ていないか。

この確認は、相手を疑うためというより、自分を物語から少しだけ外に出すための作業だと思う。

ヒロイック構造の中にいる時、人は自分をとても正しい場所に置きやすい。

世界の危機に気づいた人。

黙っていられなかった人。

誰かを守ろうとしている人。

まだ眠っている人に声をかける人。

その位置は、かなり気持ちいい。けれど、気持ちいい場所にいる時ほど、自分の言葉が誰かにどう届いているかは見えにくくなる。

こちらは「知らせている」つもりでも、相手には「裁かれている」と届くことがある。

こちらは「一緒に考えたい」つもりでも、相手には「同じ方向を向け」と迫られているように見えることがある。

正義感を捨てるということではない。社会問題から目を逸らすということでもない。

むしろ、自分の正義感を雑に消費しないために必要な作業なのだと思う。

物語は、人を動かす。それは創作の中では、とても豊かな力だ。
けれど現実では、その力が誰かの距離感や保留を踏み越えることがある。

私たちは勇者ではない。
少なくとも、常に勇者でいる必要はない。

現実の社会問題を考える時、私たちは物語の登場人物になる前に、まず読者であっていいなと思う。

その物語がどこから始まり、誰を味方にし、誰を敵にし、どんな結末へ向かわせようとしているのか。

それを読む側に戻ってみる。

誰かの熱意を笑わない。けれど、その熱に自分の判断を明け渡さない。
自分の熱意も笑わない。

けれど、その熱で他人を急かさない。

たぶん、そのくらいの距離感が必要なのだと思う。

猫を吸いながら、私はそう思っている。


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