映画備忘録|『生きてるだけで、愛。』
※この記事では、作品内の一部台詞に触れています。※
【感情だけが、いつも自分を追い越していく】
『生きてるだけで、愛。』を観て。
『生きてるだけで、愛。』を観ているあいだ、何度も苦しくなった。
主人公の寧子は不安定で、感情的で、身近な人を振り回す。外から見れば、面倒な人に見えるのだと思う。
私も、彼女に苛立ちを感じなかったわけではない。
けれど、その苛立ちは彼女だけに向いているものではなかった。
自分にも、よく似た部分があると分かってしまったからだ。
私は、つらいことがあってもうまく行動に移せない。
その場から離れることも、誰かに助けを求めることもできないまま、感情だけが激しく動き続ける。
悲しさも、怒りも、不安も、寂しさも膨らんでいく。
それなのに、現実の私は何もできない。
そして、何もできない自分にまた腹が立つ。
どうしてこんなことで傷つくのか。
どうして気持ちを切り替えられないのか。
どうして普通にできないのか。
寧子を見ていると、その苦しさを外側から見せられているようだった。
彼女の感情は、あまりにもむき出しだ。
私は、彼女ほど露骨に感情を外へ出すことはない。
少なくとも、友達の前ではそうだった。
つらくても平気な顔をする。
不安でも相手に合わせて笑う。
気持ちが沈んでいても、場の空気を壊さないように振る舞う。
私はずっと、普通であるためではなく、普通に見えるために頑張ってきたのだと思う。
人と話す時も、私はいつも考えていた。
何を返せばいいのか。
相手は怒っていないか。
嫌われていないか。
誰かにとって自然なことが、私にとっては作業だった。
それでも感情を見せなかったのは、失望されたくなかったからだ。
面倒な人だと思われたくなかった。
何より、相手が離れていくのが怖かった。
────けれど、隠した感情はなくならない。
外で抑えたものが、恋人や家族、最も近い人の前で溢れてしまう。
本当は分かってほしいのに、素直に言えない。
寂しいと言う代わりに怒る。
不安だと言う代わりに責める。
そばにいてほしいのに、突き放す。
そして相手を傷つけたあと、自分のことも嫌いになる。
寧子に感じたのは、共感よりも痛々しさに近かった。
自分の苦しみをうまく扱えず、いちばん近くにいる人へぶつけ、それがいけないと分かりながら攻撃してしまう姿を、私も知っていたから。
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この映画で、最も印象に残った台詞がある。
「あんたが別れたかったら別れてもいいけど、私はさ、私とは別れられないんだよね、一生。いいなあツナキ、私と別れられて」
その言葉を聞いたとき、救われるより先に、逃げ場がなくなったような気がした。
人間関係や環境からは離れられても、自分の感情や考え方からは簡単に離れられない。
どこへ行っても、自分がついてくる。
その事実は、私にとって希望ではなく、重さだった。
「変わりたいと思う」ことと、「実際に変わる」ことの間には、大きな距離がある。
感情を抑えたいのに抑えられない。
人を傷つけたくないのに傷つける。
普通に振る舞えても、それを続けるだけで疲れ切る。
分かっているのにできないことが、私にはたくさんある。
だからこの映画を観ても、前向きな答えは出なかった。
自分を受け入れたい。
壊れない生き方を探したい。
そう思ってはいるけれど、今はまだ、その方法が分からない。
『生きてるだけで、愛。』は、他人の物語として観るには、あまりにも自分に近すぎた。
近すぎて、痛かった。
それでも、普通に見えるように生きることに疲れている人には、ぜひ観てみてほしい。
そして、もし寧子にまったく共感できず、ただ苛立っただけで終わるのなら。
それはきっと、とても幸せなことなのだと思う。
