〈衆〉の歴史は谷戸に息づいていた――桜山谷戸と神仏を巡って
桜山の谷戸と神仏
長く住んでいるのに、団地の下にある旧集落の中に分け入ったことはほとんどなかった。最近、古地図と現状とを詳しく比較していて、これはどうしても現場を見なければと思い、梅雨の晴れ間を利用して、田越橋から桜山公園にかけての古道に沿って谷戸を分け入り、古くからの神社・仏閣を訪ねてみた。
宗泰寺と山之神社
逗子の桜山は、海岸近くの住宅地から葉桜団地へ向かって、幾筋もの谷戸が入り込む独特の地形をしている。現在では住宅やマンションが立ち並んでいるが、一歩脇道へ入れば、谷戸の奥へと細い道が伸び、両側を山に囲まれた静かな空間が現れる。
西側の田越橋から細い道に入り、最初に立ち寄ったのは宗泰寺である。谷戸の寺らしく、山裾に寄り添うように建ち、古くからこの地の人々の暮らしを見守ってきたことがうかがえる。境内の鳥居から石段をのぼると山之神社(桜山 山の神)がある。その直下には、地元に古くから住む石渡家のお屋敷がある。


子ノ神社と応神大権現
境内を後にしてさらに谷戸を辿り、子ノ神社(桜山 子の神)へ。谷戸のどん詰まりにあるこの神社もしっかりと整備されているが、驚かされたのは、本殿横にひっそりと並ぶ二つの石祠だった。その間には「応神大権現」と刻まれた石碑が立ち、建立は天保年間に遡る。
応神天皇を祀る神名といえば、普通は「八幡大菩薩」を思い浮かべる。「応神大権現」という呼称は、私には初めて目にするものだった。神仏習合の濃厚な時代をそのまま伝える名称であり、この谷戸に暮らした人々の信仰の古さを静かに物語っていた。


金剛寺
さらに谷戸をつなぐ細道を辿ると、真言宗金剛寺へ着く。寺は無住となって荒廃していたものを近年再建したため、建物自体は近代的な姿をしている。しかし境内には地蔵や庚申塔、古い石仏が丁寧に残され、建築は新しくとも信仰の歴史が受け継がれていることがよく分かる。


「旧遊里跡」

そして今回最大の関心事だった「旧遊里跡」へ向かった。
古地図には確かに「旧遊里跡」と記されている。しかし現地へ足を踏み入れてみると、そこは孤立した特殊な場所というより、一つの谷戸共同体の奥深くに組み込まれた一本道だった。右側には切り立った山、左側だけに家々が並び、行き止まりには住宅か倉庫が建ち、「関係者以外立入禁止」の札が掛けられている。

地元の古くから住む方にも尋ねてみた。
「遊郭とか料理屋とか、そんな話は聞いたことがないね。」
との返事だった。
もちろん、それだけで古地図の記載が否定されるわけではない。しかし少なくとも、この場所を近代都市の遊郭街のような姿で想像することは難しい。
むしろここは、一つの谷戸共同体の内部に存在した、ある特異な機能を担う場所だったのではないか。そんな印象を強く受けた。
「旧遊里跡」の正体を知る手がかりは、残念ながら見いだせなかった。しかし谷戸の一本道を歩いているうちに、ふとこんな情景が浮かんだ。
仕事を終えた人々が、山裾の小さな料理屋に集まり、酒を酌み交わし、ときには三味線や歌に耳を傾ける。町の遊郭とは違う、谷戸の暮らしの中に溶け込んだささやかな桃源郷――もし「旧遊里」という言葉に実体があったとすれば、そのような場所だったのではないか、と。

もちろん、これは現場に立って私の胸に浮かんだ一つの想像にすぎない。しかし、片側谷戸の一本道と、その奥から湧くせせらぎに沿って続く家並みを前にすると、その静かな生活空間には、日々の生業の疲れを癒やすための、小さな灯火がともっていたとしても不思議ではないように思われた。
谷戸の途中には山へ登る細い階段があり、「この上は葉桜団地へ出ますよ」と教えられた。現在では津波避難路として整備されているが、その道筋は、おそらく古くから尾根へ抜ける生活道でもあったのだろう。

谷戸という地形は、単なる地形ではない。
そこにはそれぞれ生活圏があり、一つひとつの谷戸が独自の世界を形づくっていたのである。
そのことを最も鮮やかに実感したのは、桜山神明社への参道だった。
桜山神明社
住宅街の一角に鳥居が立ち、そこから山中へ向かって七曲りの急な石段が続く。深い樹林の中を登っていくと、崩れた古い鳥居の向こうに新しい石灯籠が現れ、さらに石段を登り詰めると、巨木に囲まれた堂々たる社殿が姿を現した。




古地図には、この神明社のさらに上に「第六天社」が描かれている。
現在、第六天社は神明社本殿横に移されているようだが、その旧社地へ続いていたと思われる山道の痕跡は、今もかすかに残っていた。踏み跡は落葉に埋もれ、倒木も横たわっている。それでも、尾根へ向かう一本の線として、確かに古道は息づいていた。

現地へ立って初めて分かったのは、古地図の一点一点が、実際には谷戸・尾根・神社・古道を結ぶ立体的な世界だったということである。
神明社には、さらに興味深い石造物が残されていた。
狛犬には
「大正十年九月十五日 青年会」

石灯籠には
「昭和二年十月 氏子中」

さらに参道入口には
「皇紀二千六百年」

と刻まれた昭和十五年建立の鳥居が立ち、近年再建された社号標には
「平成二十二年十二月吉日建立 桜山神明社氏子中」

と記されている。
ここには、一世紀近い時間の層がそのまま重なっていた。
しかも刻まれている主体は、一人の寄進者ではない。
青年会。
氏子中。
いずれも共同体そのものなのである。
私はこの一年、「国家」と「個人」のあいだに存在する主体としての〈衆〉について考え続けてきた。
国衆、町衆、門徒衆、雑賀衆……。
歴史の中で繰り返し現れる「衆」とは何なのか。
その答えを探して文献を読み続けてきたが、この日、それは古文書の中ではなく、谷戸の石に刻まれていることに気づいた。
青年会。
氏子中。
それはまさしく、この谷戸で生きた人々が、自らを共同体として表現した言葉だったのである。
帰り道、神明社の森を振り返ると、谷戸を埋め尽くす杉や椎の巨木が静かに風を受けていた。
都市化が進み、団地が造成され、谷戸の景観は大きく変わった。しかし、その地下には、古道があり、神々があり、寺があり、そして〈衆〉の記憶が折り重なるように眠っている。
今回の踏査は、「旧遊里跡」の確認から始まった。しかし歩き終えたとき、私が見つけていたのは遊里ではなく、谷戸という小さな生活世界の中に息づき続けてきた〈衆〉の歴史そのものだったのである。
〔了〕
