トレニアの心|私は、閉じることが怖かった
朝、台所の蛇口から垂れる水滴の音で目が覚める。
目覚ましが鳴るよりわずか数分前。
体は重く、布団の重みがそのまま自分を地面に縫い付けているように感じられた。
顔を洗い、鏡を見る。
そこに映っているのは、特別に悲しそうでも、怒っているわけでもない、無色透明な自分の顔だった。
誰かが困っていれば、自分の予定やすり減りかけた体力を計算する前に、手が勝手に動いていた。
周りの空気が穏やかに満ちているのを見ることが、自分にとっても一番心地よかったから。
けれど、いつからだろう。
他人の微細な表情の揺れには過剰なほど敏感なのに、自分の胸の奥から湧き上がる声だけが、分厚い水の中に沈んだように届かなくなっていた。
休日の午後、散歩の途中で立ち寄った小さな空き地の脇。
コンクリートの隙間から、紫色の小さな花が身を寄せるようにして咲いているのが目に入った。トレニアだった。
夏の容赦ない陽射しを受けて、周りの雑草が少し萎れかけている中で、その花びらは穏やかに開いたまま、涼しげにそこにいた。
かがみ込み、ドレスのような形をした花びらの奥を、静かに覗き込む。
可憐にひらいた紫の花びらの奥深く、小さな雌しべの先が、二つのくちばしをそっと合わせるように静かに閉じられているのが見えた。
少し前に、羽虫か何かが奥へ潜り込み、触れていったのだろう。
外側の花びらは穏やかにひらかれたままだが、命の種を宿す一番奥の場所だけは、静かに自らを収めていた。
普段はひらいて待ち、深く触れられたときだけ、音もなくそっと閉じる。
そして、その刺激が去り、ときが満ちれば、また誰に言われるでもなく静かに元の形へ戻っていく。
器用に外側を取り繕うのでも、強い言葉で誰かを拒むのでもない。
ただ、大切な場所を守るために、一時的に身を収めているだけなのだと分かった。
その姿を見たとき、胸の奥の固く冷たくなっていた場所が、かすかに温かく揺れた。
私は、閉じることが怖かったのだ。
一度心を閉じたら、二度と開けなくなってしまうのではないか。
周りの期待に応えられなくなり、自分の居場所がなくなってしまうのではないかと怯えていた。
けれど、無理に心を開き続ける必要も、外側と戦う必要もなかった。
今はただ、深く傷つきすり減った胸の奥を、静かに閉じさせておけばいい。
休まり、ときが来れば、この花のようにまた自然と自分を取り戻していくのだから。
風が通り抜け、トレニアの小さな花びらが揺れる。
呼吸が、少しだけ深くなるのが分かった。
肩に入っていた無意識の力が抜け、胸の奥に、ずいぶんと長い間忘れていた小さな余白が生まれていく。
家に帰り、お湯を沸かす。
コップに注いだ湯気が立ち上るのを眺めながら、自分自身に向かって、声に出さずに問いかけてみる。
「今、私はどうしたい?」
返ってきた答えは、少しだけ休みたい、という、ごく小さな、けれど偽りのない声だった。
携帯電話が短い振動音を立て、画面には返信を待つメッセージが表示されている。
いつものように、すぐに返さなきゃ、という強い焦りが胸を締め付ける。
返さなければ、何か恐ろしいことが起きてしまうような気がして手が震える。
けれど、深く息を吐き、恐る恐る画面から目をそらしてみた。
ほんの少しだけ。自分の呼吸が落ち着くまでの、短い時間だけでいい。
画面を伏せても、部屋の中には静かな時間が流れているだけだった。
誰も追ってこない。何も壊れない。
ほんの数分間、自分の手で作り出した静けさの中で、胸の奥に小さな余白が生まれていく。
窓の外では、夏の終わりの静かな夕暮れが広がっている。
大きな変化があったわけではない。
けれど、胸の奥に生まれた静かな安心感が、体に優しく染み渡っていった。
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私の紡いだ言葉が、新しい場所へと繋がり、また誰かの心に届くきっかけをいただけたこと、本当に嬉しいです。
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hanatoshiki
