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【動画付短編小説】【JACK】─外典 途中の世界/第十三夜 継ぐ夜

今日も宿屋で朝を迎える。

黒鉄都市ヴァルハイト。東門。
まだ陽は低い。

二頭立ての荷馬車が一台。
荷台には、木箱。袋。樽。薬草。塩。乾燥食料。灯火油。
そして、布に包まれたいくつかの祭具。

飛鳥が荷台を見る。

「……本当に地味ですね」

神宮寺「何がだ」

「初クエスト」

五島「昨日、自分で選んだだろ」

飛鳥「選びましたけど。冒険者になって最初に運ぶのが、塩とは思いませんでした」

南雲「必要なものだ」

飛鳥「それはそうなんですけど!」

御者台。
ブラニが手綱を握りながら、地図を広げている。

南雲「どちらかにしろ」

ブラニ「え?」

「地図を見るか、前を見るか」

ブラニ「はい!」

飛鳥「開始前から不安なんですけど!」

ブラニは慌てて地図を畳む。

「エルデ村までは南東です。山道に入ってからが長いです」

南雲「天候は」

ブラニが空を見る。

「山の奥に入る頃には、霧が出ると思います」

飛鳥「分かるんですか?」

ブラニ「何となく」

五島「便利だな」

飛鳥「私の何となくと質が違う!」

神宮寺が荷台に分厚い本を置いた。

《旅人のためのヘブライ語基礎講座》

飛鳥「……持ってきたんですね」

神宮寺「買ったからな」

五島「道中で読める」

南雲「俺は読まん」

飛鳥「まだ言ってる」

五島が本を取る。開く。

飛鳥「早い!」

五島「暇だからな」

「まだ出発してません!」

ブラニが御者台から身を乗り出す。

「これ、何て読むんですか?」

五島「アレフ」

ブラニ「次がベートですね!」

「アレフ。ベート」

飛鳥「もう授業始まってる!」

南雲「出るぞ」

飛鳥「南雲さんだけ、本当に興味ない!」

南雲「ない」

五島「覚えておいて損はない」

南雲「お前が覚えろ」

五島「覚える」

南雲「……」

神宮寺「相性悪いな」

飛鳥「むしろ噛み合ってます」

東門が開く。

ギィィ――。

ヴァルハイトの黒い城壁の向こうに、街道が延びている。
さらに遠く。山。霧。

ブラニが手綱を握り直す。

「出発!初依頼です!」

飛鳥「危険度、低!」

五島「まだ言ってる」

飛鳥「大事です!」

馬が歩き出す。

カラカラ。

荷馬車が、ゆっくりと東門を抜ける。

南雲は普通の剣と普通の鎧。
神宮寺は腰に《護生灯》。
五島は黒い防護外套に、《菊の刃》。
ブラニは短槍と木杖。
飛鳥は軽い革鎧に短剣。
そして、分厚い語学書。

一行は、山へ向かった。

昼。
街道。

荷馬車の車輪が一定の音を刻む。

カラ。カラ。

特に、何も起こらない。

飛鳥は荷台から街道を見る。

「……本当に、何も起きませんね」

神宮寺「いいことだ」

飛鳥「そうなんですけど」

五島は荷台の端に座り、本を読んでいる。

飛鳥「何ページ目です?」

五島「三十二」

飛鳥「早くない!?」

五島「文字だからな」

飛鳥「文字だから何ですか!」

ブラニ「五島さん、発音も上手です」

飛鳥「もう!?」

五島「規則がある」

飛鳥「昨日買ったばかりですよ!」

南雲が御者台から振り返る。

「放っておけ」

飛鳥「南雲さん、悔しくないんですか?」

南雲「何がだ」

「語学力で負けてます」

南雲「戦ってない」

五島「正しい」

飛鳥「そこだけ意気投合!」

神宮寺が少し笑う。

ブラニはいつの間にか御者台の端へ追いやられている。
南雲が手綱を握っていた。

飛鳥「やっぱり交代したんですね」

ブラニ「三分は運転しました!」

飛鳥「短い!」

南雲「地図を見始めた」

ブラニ「道を確認しようと思って……」

南雲「前を見ろ」

ブラニ「はい!」

五島「教育が始まったな」

飛鳥「南雲教習所!」

南雲「やめろ」

街道は続く。
馬の蹄。車輪の音。風。
それが、少しだけ心地よかった。

午後。
街道の向こう。山が近づいてくる。

低い陽が、黒い稜線の縁だけを薄く撫でていた。
草の匂いが、街の鉄と煙の匂いから、土と水の匂いに変わる。
荷馬車の影が、長く道に落ちる。

ブラニが荷台から身を乗り出した。

「この先から、エルデ村の領域です」

飛鳥「ヴァルハイトの外なんですか?」

ブラニ「国としてはヴァルグ様の領地ですよ」

飛鳥「ですよね」

「でも、村はすごく古いです」

神宮寺「どのくらいだ」

ブラニ「ヴァルハイトができる前からあったそうです」

飛鳥「え」

五島が本から目を上げる。

「街より先輩か」

飛鳥「村に先輩後輩あるんですか?」

五島「お前が言いそうだったから先に言った」

飛鳥「取られた!」

南雲「どうでもいい」

ブラニ「だから、祭りとか言葉とか、街とは全然違うんです」

神宮寺「古い文化が残ってるわけか」

ブラニ「はい!」

五島「面白そうだな」

飛鳥「五島さん、そういうの好きですよね」

五島「嫌いではない」

南雲「着いてからにしろ」

馬車が山へ入る。

夕方。
山中の街道脇。
今日はここで野営する。

火を焚く。食事。交代で見張り。
何か出そうだが、結局何も出ない。

翌朝。
山道。

景色が変わる。
道は細くなる。左右には深い森林。
巨大な樹木。苔。湿った土。岩。
遠くで、水の流れる音。

南雲が馬車の速度を落とした。
ブラニが前を見る。

「ここから、少し気をつけてください」

南雲「何がある」

「道が二つに分かれます」

飛鳥「地図には?」

「片方しか載ってません」

五島「もう片方は」

ブラニ「古い道です」

南雲「使うな」

ブラニ「はい」

飛鳥「近道じゃないんですか?」

南雲「近道ほど信用するな」

「何でです?」

五島「迷うからだろ」

南雲「ああ」

飛鳥「普通の答え!」

道がさらに狭くなる。
車輪が大きな石を越える。ガタン。
馬が鼻を鳴らす。

南雲が手綱を引いた。

「この先だけ歩く」

飛鳥「結局歩くんですか!?」

南雲「馬を潰す気か」

飛鳥「理由がまとも!」

神宮寺が御者台から降りる。
五島も本を閉じる。

飛鳥「五島さんまで」

五島「揺れて読めん」

飛鳥「理由そこ!」

南雲が先頭の馬の手綱を取る。
神宮寺は馬車の左。五島は右。ブラニは先頭付近。飛鳥は後方。
荷馬車を囲むように歩き始める。

南雲「道が少し開けた。乗れ」

再び、荷馬車が動き出す。

やがて。
白いものが、木々の間を流れ始めた。

霧。

飛鳥「……出た」

ブラニ「やっぱり」

神宮寺「当たったな」

ブラニが、少し嬉しそうにする。

南雲「視界二十。離れるな」

飛鳥「もう数字出すんですね」

神宮寺「ああ」

霧が濃くなる。
馬の吐息が白くなる。
車輪が、ギシ。ギシ。と軋む。
道そのものが、白く溶けていく。

その時。
ブラニが指を差した。

「……あ」

木の一本に、雨に濡れた白い布が細長く結ばれていた。
湿った風に、布だけが生きているように揺れる。
道は白い。残っているのは、その一筋だけだった。

飛鳥「何ですか、あれ」

ブラニ「エルデ村の印です。旅人が迷わないように。村まで、ずっと続いています」

神宮寺「道標か」

五島「随分、古いな」

ブラニ「毎年、祭りの前に新しくするそうです」

飛鳥「祭り……」

受付嬢の言葉が蘇る。

――今年が最後になるかもしれない。

飛鳥は白い布を見る。
何も言わなかった。

霧の中。
布だけが、道を繋いでいた。

日没。
霧の向こうに、灯りが見えた。

一つ。二つ。三つ。

村が現れる。
エルデ村。

山の斜面に、小さな家が三十戸ほど。
石。木。藁。
中央に広場。
その奥。急な石段。
さらに上に、古い社。
屋根に苔。軒に白い布。背後は黒い森と、巨大な山。

飛鳥「……静か」

神宮寺「ああ」

ブラニ「人、少ないですね。昔はもっといたそうです」

ヴァルハイトとは、何もかも違った。
黒い城壁もない。騎士の旗もない。石造りの塔もない。
代わりに、古い木。苔。白い布。火の匂い。

飛鳥「本当に同じ国なんですよね?」

ブラニ「はい!」

五島「国と文化は別だろ」

飛鳥「分かってますけど、落差がすごいです!」

南雲「着いたぞ」

村の入口で、老人が三人待っている。
一人は白髪。細い身体。だが、背筋は真っ直ぐだった。杖は持っていない。

老人「黒鉄冒険者ギルドの者か」

神宮寺「ああ」

依頼書を見せる。
老人が印を確認する。

「村長のガラムだ」

神宮寺「神宮寺」

飛鳥「飛鳥です」

五島「五島」

南雲「南雲」

ブラニ「ブラニです!」

ガラムがブラニを見る。

「……随分、若い冒険者だな」

ブラニ「見習いです!」

飛鳥「そこは堂々と言うんだ」

小さな笑いが起きる。
ガラムの口元も、ほんの僅かに動いた。

「荷は、こちらへ」

村人たちが集まる。
荷馬車から箱を降ろす。
塩。食料。薬草。油。

南雲が馬の首を軽く叩く。
村人が馬を納屋へ連れていく。

最後に、布に包まれた祭具。
村人の手が、一瞬止まった。

若い女。二十歳ほど。
祭具を見て、僅かに表情を揺らす。

ガラム「ミラ」

女「……はい」

「運べ」

ミラが祭具を抱える。
飛鳥が、その顔を見る。
何かが、引っかかった。

夜。
村の小さな宿。
といっても、空き家を借りただけのもの。囲炉裏がある。

神宮寺「悪くない」

飛鳥「JACKより寒いです」

五島「山だからな」

飛鳥「分かってます!」

ブラニが干し肉を食べ、温かいスープをすする。
南雲は窓の外を見ている。

村は、妙に静かだった。
明日が祭りのはずなのに。
笛も。太鼓も。聞こえない。

南雲「祭りの前にしては静かだな」

神宮寺「ああ」

飛鳥「準備してる感じも、あまりないですね」

五島「終わるからじゃないか」

飛鳥「……」

五島がスープを一口。

「最後なら、騒ぐ理由もない」

飛鳥「そういう言い方しかできないんですか」

五島「何がだ」

神宮寺「飛鳥」

飛鳥「……分かってます」

戸が鳴る。

コン。コン。

神宮寺「どうぞ」

扉が開く。
ミラが立っていた。両手に、小さな包み。

「先ほどは、ありがとうございました」

神宮寺「依頼だからな」

「これ」

包みを置く。木の実を焼いたもの。

「村から」

ブラニ「ありがとうございます! 食べていいですか!?」

ミラ「どうぞ」

ブラニ「やった!」

飛鳥がミラを見る。

「お祭り、明日なんですよね?」

「ああ」

「どんなお祭りなんですか?」

少し沈黙。

ミラ「《霧迎え》」

神宮寺「霧迎え?」

「一年に一度、山から降りてくるものを迎えて、舞って、朝になったら山へ返す」

ブラニ「神様?」

ミラ「そう言う人もいる」

五島「本人は」

ミラ「分からない」

五島「そうか」

飛鳥「何で嬉しそうなんです?」

五島「嬉しくない」

ミラが少し笑う。
しかし、その笑みは、すぐに消えた。

神宮寺「今年で最後と聞いた」

ミラの目が止まる。

「ああ。そうなる」

ブラニ「どうしてですか?」

ミラ「舞える人が、いなくなるから」

静寂。

飛鳥「ガラムさんは?」

「祖父は舞える。他にも三人。でも全員、七十を越えてる」

神宮寺「後継者は」

ミラは答えない。

五島「いないのか」

ミラ「……いる」

飛鳥「え?」

ミラ「いる。でも、祖父は継がせない」

翌朝。
広場。

祭具が並べられている。
木の仮面。鈴。白い布。枝。小さな太鼓。黒い古い衣装。

そして、広場の中央。
黒く煤けた、小さな鉄籠。
中には炭。まだ、火はない。

飛鳥「これは?」

ミラ「祭りの火を入れる」

ブラニ「焚火ですか?」

「少し違う。村の家には、それぞれ炉がある」

ミラは鉄籠を見る。

「祭りの夜は、全部の家から一つずつ火を持ってくる」

飛鳥「火を?」

「ああ。昔からそうしてる」

五島「一つの火にまとめるのか」

ミラ「そう。そして朝になったら、またそれぞれの家へ持って帰る」

神宮寺「火まで、行って帰るんだな」

ミラ「そういう祭りだから」

五島「合理的だ」

飛鳥「そこ?」

五島「火種は必要だろ」

ミラが少し笑った。

南雲が仮面を見る。
牙。角。歪んだ笑み。

「随分、怖いな」

ブラニ「かっこいい!」

飛鳥「そこなんだ」

ブラニ「山の神ですか?」

ガラム「違う」

一同が振り向く。
ガラムが立っている。

「神ではない」

仮面を手に取る。

「山から来るものを、人が分かる形にしただけだ」

五島「つまり、仮面だな」

ガラム「ああ」

飛鳥「夢がない!」

ガラム「夢で続いているわけではない」

ガラムが祭具を一つずつ確認する。
手は慣れている。何十年。何度となく。繰り返してきた動き。

ミラが少し離れた場所から見ている。
飛鳥が近づく。

「ミラさん」

「何」

「継ぎたいんですか」

ミラは黙る。
長い沈黙。

「……分からない」

飛鳥「昨日は、いるって」

「舞える者は、いる。私も、ある程度なら。でも、昔と同じにはできない」

「何が違うんです?」

ミラ「舞手は本来、八人。今は四人。笛は二人、今は一人。太鼓も一つ壊れた」

一拍。

「舞は三十六ある。私が覚えているのは二十五」

さらに。

「言葉も、古い祈りの言葉が全部は読めない」

五島が、少し離れたところで聞いている。

ミラ「祖父は言った。欠けたものを、同じ名前で続けるな」

飛鳥「……」

ガラムはこちらを見ない。
だが、聞こえている。

ミラ「だから、今年で終わり」

昼。
祭場。
古い木造。床の一部が軋んでいる。

南雲がしゃがみ、板を見る。

「腐ってる」

村人「分かるのか」

南雲「踏めば分かる」

村人「今日だけ持てばいい」

南雲「持たん。人が乗れば抜ける。板を替えろ」

村人「替えの材木が」

南雲が山積みの薪を見る。

「使える」

村人「薪だぞ」

南雲「人が落ちるよりいい」

五島「祭りの形が変わるな」

村人「……」

南雲「床だ」

飛鳥「南雲さん、強い」

南雲「何がだ」

神宮寺が少し笑う。

村人は結局、板を替え始めた。
南雲も一緒に木を運ぶ。

ブラニが大きな板を持とうとする。

南雲「それは重い」

ブラニ「持てます!」

南雲「落とす」

ブラニ「……はい」

飛鳥「朝から同じやり取りしてる!」

午後。

ガラムが祭衣を着て立つ。
鈴を手に。
一歩。二歩。
舞を始める。

静かで。遅い。だが、美しい。
足は正確。腕は流れる。

ブラニ「……すごい」

一拍。

ガラムが回る。

その時。
足が僅かに崩れた。

ドン。

膝が床につく。

神宮寺「!」

駆け寄る。

ガラム「触るな」

神宮寺「無理だ」

「祭り前だぞ」

「だからだ」

神宮寺が膝を見る。
腫れ。古い傷。新しい捻挫。

《護生灯》が、淡い金の光を放つ。

老人が目を見開く。
村人たちがざわめく。

神宮寺「少し楽になる」

ガラム「……治るのか」

神宮寺「全部は無理だ」

一拍。

「時間までは戻せない」

静寂。
光が消える。

ガラムが足をつく。
痛みは少し引いている。だが、完全ではない。

神宮寺「今夜、三十六全部はやめろ」

ガラム「やる」

南雲「無理だ」

ガラム「これは、最後だ」

南雲「だから死ぬのか」

ガラムが南雲を見る。

南雲「終わらせるために死ぬなら、俺には理解できん」

ガラム「お前に何が分かる」

南雲「分からん」

即答。

ガラム「……」

南雲「だから、決めるのはお前だ」

一拍。

「ただ、身体はもう答えを出してる」

沈黙。
誰も、続けなかった。

夕方。
霧が下りてくる。
村に火が灯る。

一軒。また一軒。

村人たちが、それぞれの炉から小さな火を持って広場へ集まる。
蝋燭。炭。小さな松明。

家ごとに匂いの違う炎が、一つずつ籠へ落ちる。
塩の匂い。脂の匂い。古い木の匂い。
別々の夜が、同じ赤になる。

一つ。二つ。三つ。

やがて、炎が立つ。

ゴウッ。

飛鳥が見る。
胸の奥が、僅かにざわついた。

《共感》。

飛鳥「……?」

神宮寺「どうした」

「今、何か……」

五島「何か?」

飛鳥「分からない」

南雲「なら気にするな」

飛鳥「雑!」

炎が揺れる。
一瞬だけ、こちらを見たような気がした。

祭場。
村人たちが集まる。

しかし、舞手は三人。
ガラムは座っている。膝に包帯。
一人、足りない。

ミラは祭場の外に立っていた。
飛鳥が隣に並ぶ。

「行かないんですか」

ミラ「行けない」

「どうして」

「祖父が、許さない」

飛鳥「ミラさんは、どうしたいんです?」

ミラ「だから、分からないって」

飛鳥は、すぐには返さなかった。

目を閉じる。
胸に、僅かな青い光。

《共感》。

ざらつくもの。
重いもの。
その奥で、小さく脈打つもの。
名前が、まだつかない。

飛鳥が目を開く。

「……分からないです」

ミラが横を見る。

「何が」

「今、触れたもの。継ぎたい、なのか。終わってほしくない、なのか」

一拍。

「どっちかには、まだできない」

ミラの肩が、わずかに下がる。

「……勝手に決めないでよ」

飛鳥「決めません」

一拍。

「だから、ミラさんが、自分で言ってください」

ミラが祭場を見る。
祖父を見る。
その向こう、鉄籠の火が揺れる。

飛鳥も見る。
一瞬、炎の中に何かがいた。
小さな人。いや。鬼。いや。獣。
形が定まらない。
次の瞬間には、消えていた。

飛鳥「……?」

五島が社の端で、古い板を見ている。
文字が刻まれている。

村人「読めるのか」

五島「少し。昔の祈りの言葉だ」

村人「古代語か」

五島「誰も全部は読めん」

五島が指で文字を追う。
頭の中で、文字が少しずつ意味を繋いでいく。

五島「……」

神宮寺「読めるのか」

五島「完全ではない」

指を止める。

「『同じように舞え』」

村人「やはり」

五島「違う」

指が、その先へ進む。

「その後がある」

静まり返る。

五島「『同じように舞え。ただし、同じ者であろうとするな』」

村人「……」

五島「面白いな」

板を見る。

「最初から、変わることを想定してた」

ガラムが遠くで顔を上げる。

五島「誰が書いたか知らんが、お前たちより少し頭が柔らかい」

村人「失礼だぞ」

五島「そうか」

飛鳥「五島さん!」

五島がさらに下。
煤で黒くなった文字を指で拭う。

「……もう一つある」

ガラム「何だ」

五島「読みにくい」

指でなぞる。

「『火は、一つの家に留めるな』」

ミラ「……」

五島「『集め。分け。また、渡せ』」

飛鳥が鉄籠の火を見る。
炎が揺れる。
今度は、確かに、こちらを向いた。

夜。

笛が一本。

ヒュウ――。

太鼓が一つ。

ドン。ドン。

中央に炎。
舞手は三人。
ガラムは座っている。

《霧迎え》が始まる。

昔は八人。今は三人。
笛は二本。今は一本。
太鼓は二つ。今は一つ。
欠けている。不完全。
それでも、始まった。

村人は黙って見る。
子どもが二人。母親の手を握っている。
ミラは立っていた。拳を握っている。

一つ目の舞。二つ目。三つ目。

一人の老人が、呼吸を荒くする。

ガラム「止めるな」

舞手「だが」

「続けろ」

五島が小さく言う。

「無理だな」

南雲「ああ」

十番目。
老人が膝をつく。
笛が止まる。

完全な沈黙。
祭場で、火だけが揺れる。

ガラムが立とうとする。膝が動かない。

神宮寺「やめろ」

ガラム「まだだ」

歯を食いしばる。

「終わってない」

その時。
ミラが、一歩、祭場へ入った。

村人たちがざわめく。

ガラム「ミラ。出ろ」

ミラ「嫌」

「これは、お前の舞じゃない」

「知ってる」

一歩。

「全部は知らない」

また、一歩。

「八人分もできない。三十六も覚えてない」

ガラム「なら」

ミラ「でも!」

声が山に響く。

「終わらせたくない!」

静寂。
炎が一度、大きく揺れる。

ミラ「昔と同じにはできない」

声が震える。

「祖父ちゃんみたいにもできない」

一拍。

「間違える。忘れる。変えるかもしれない」

涙が頬を伝う。

「それでも、来年、またやりたい」

ガラム「……」

「来年も。その次も」

ミラは祖父を見る。

「全部じゃなくていい」

声が小さくなる。

「残ったものを、私にくれ」

完全な沈黙。
ガラムが俯く。
長い。長い沈黙。

五島は、珍しく何も持っていない。

「残すことと、生かすことは違う」

ガラムが見る。

五島「誰も受け取らないなら、残しても標本になるだけだ」

飛鳥「五島さん……」

五島「だが」

ミラを見る。

「受け取る奴がいるなら、話は別だ」

ガラム「……」

五島「死体じゃない」

一拍。

「まだ途中だ」

静寂。

神宮寺がガラムを見る。

「残したい人がいるなら、残せばいい」

ガラム「簡単に言う」

神宮寺「ああ」

「俺は、外から来た人間だからな」

少し間を置く。

「だから、残せとも終われとも言えない」

ミラを見る。

「でも、渡す相手は、もういる」

南雲が短く言う。

「守る人間がいるなら」

一拍。

「護る理由にはなる」

飛鳥「……」

ガラムがミラを見る。
ミラは目を逸らさない。

やがて。
ガラムが、腰の小さな鈴を外した。
古い。いくつもの傷。何十年も握られてきた跡。
手を差し出す。

ミラの息が止まる。

ガラム「全部は、渡せん」

ミラ「……」

「俺も、全部は受け取っていない」

ミラ「え」

ガラムは鈴を見る。

「先代が忘れたものもある」

一拍。

「俺が忘れたものもある」

さらに。

「太鼓の打ち方も変えた。道も変えた。昔は山の上まで歩いた」

飛鳥「……」

ガラム「それでも、俺は受け取った」

ミラの目に涙が溜まる。

ガラム「全部じゃなくていい」

鈴を少し前へ。

「受け取れる分だけ、受け取れ」

ミラの手が震える。

ガラム「そして」

一拍。

「お前の分を足せ」

ミラが両手で受け取る。
鈴が鳴る。

チリン。

小さな音。
だが、村中に響いたように聞こえた。

同時に。
中央の火が、

ゴウッ――。

大きく立ち上がる。

村人たちが振り向く。

ガラム「……?」

炎が一瞬だけ、鬼面のような形を作る。
角。牙。燃える髪。
だが、恐ろしくはない。怒ってもいない。
ただ、見ている。
飛鳥を。

飛鳥「……また」

神宮寺「見えるのか」

飛鳥「はい」

五島「何がだ」

「火の中に、何かいます」

ブラニ「精霊!?」

南雲「近づくな」

飛鳥「でも」

胸に青い光が広がる。

《共感》。

今までとは違う。
ミラではない。人でもない。
言葉がない。
ただ、熱。時間。

いくつもの手。
薪を入れる手。子どもを抱く手。火を分ける手。
老人の手。若者の手。無数の手。
何世代もの記憶。

飛鳥「……消えたくない……?」

炎が揺れる。

違う。

「残りたい?」

また違う。

五島「何をしてる」

飛鳥「聞いてるんです!」

南雲「火に?」

飛鳥「そうです!」

五島「そうか」

飛鳥「普通に受け入れないで!」

炎が、大きく一度揺れる。
飛鳥が目を閉じる。

感じる。
火は、留まりたいのではない。
同じ場所で永遠に燃えていたいのでもない。
家から祭場へ。祭場から、また家へ。
人から人へ。手から手へ。

飛鳥が目を開く。

「……渡りたい、のかもしれない」

炎が、

ゴウッ――!!

強く燃え上がる。

誰もが無言で見守る。

飛鳥「……当たった、のかな」

五島「火も途中か」

飛鳥「何でも途中にしないでください!」

その瞬間。
視界に、短い文字が浮かぶ。

《名なき火守/火精霊》
《契約意思あり 条件:所有せず、渡すこと》

飛鳥「……向こうから?」

ブラニ「すごい!」

五島「人気者だな」

飛鳥「人じゃないです!」

ガラムには文字は見えない。
だが、炎を見ている。

「昔、祖父から聞いたことがある」

皆が見る。

ガラム「この村の火には、人より長く祭りを見ているものがいると」

飛鳥「……」

「だが、誰も契約した者はいない」

五島「なぜだ」

ガラム「火は、所有しようとする者を拒むとな」

五島「精霊か」

ガラム「知らん」

炎を見る。

「神だと言う者もいた。荒ぶる火の守り手だと、そう呼ぶ者もいた」

神宮寺「名前は」

ガラム「もう残っていない」

飛鳥が炎を見る。

名なき火守。
何百年。名前すら失い。
それでも、人から人へ渡され続けてきた火。

飛鳥「……契約したら、私があなたを持つわけじゃないんですよね」

炎が静かに揺れる。

「必要な人がいたら、そこへ渡す」

炎が、もう一度明るくなる。
飛鳥が少し笑う。

「……それなら」

一拍。

「私も、そういう方が好き」

文字が光る。

《契約する YES》

飛鳥「何か、選択肢一個しかないんですけど!」

五島「嫌なら断れ」

飛鳥「そうですけど!」

神宮寺「どうする」

飛鳥が炎を見る。
ミラを見る。ガラムを見る。祭場を見る。

「契約します」

一拍。

「でも」

炎を見る。

「私のものにはしません」

炎が一瞬、白く輝く。

《契約成立 灯火》
《小さな火。照らす。温める。弱い霧を遠ざける》

飛鳥「……灯火?」

待つ。

「……」

さらに待つ。

「……火球は?」

何も出ない。

飛鳥「火球は!?」

五島「ないんじゃないか」

飛鳥「攻撃魔法ゼロ!?」

神宮寺「いいじゃないか」

南雲「十分使える」

飛鳥「皆さん、そう言うと思いました!」

ブラニ「温かいです!」

飛鳥「ブラニちゃんまで!」

炎が小さく揺れる。
笑っているように見えた。

舞が再開する。

ミラが白い衣に、古い仮面を被る。

一歩。足が違う。ガラムと違う。
二歩。少し早い。
三歩。間違える。

子どもが、小さく笑う。
ミラが止まる。

ガラム「止まるな」

仮面がこちらを見る。

「間違えた」

ガラム「知ってる」

一拍。

「続けろ」

ミラが、また動く。

笛が一つ。太鼓が一つ。
老人が二人。若者が一人。
そして、中央に、一つの火。

途中。

子どもが鈴を鳴らす。

チリン。

母親「こら」

ガラム「いい」

母親が止まる。
ガラムは子どもを見る。

「鳴らせ」

子どもが、もう一度。

チリン。

今度は、誰も止めなかった。

ミラが舞う。
決まっていない音。少しずれる。少し笑う。
誰かが笛を間違える。誰かが太鼓を一拍早く打つ。
子どもが、また鈴を鳴らす。

チリン。

ミラが舞う。
完璧ではない。昔と同じではない。
だが、火は消えなかった。

夜明け。

山から白い霧が、ゆっくり谷へ流れていく。
社の屋根だけが、薄く残る。
鉄籠の底で、炭がまだ息をしている。
完璧ではなかった夜の、残り火だ。

祭場。
皆が座っている。疲れている。笑っている。
子どもが眠っている。
ブラニも木杖を抱えたまま、うとうとしている。

村人たちが中央の火から、小さな火を一つずつ持ち帰っていく。
昨日、家々から集められた火。
今度は、祭場から、また家々へ。

飛鳥がその様子を見る。
炎の奥で、小さな何かが、手を振った気がした。

飛鳥「……終わりましたね」

神宮寺「ああ」

五島「始まったんじゃないか」

飛鳥「え?」

五島が祭場を見る。
ミラがガラムから、古い仮面の紐の結び方を教わっている。

「来年が、ある」

飛鳥が少し笑う。

「また、格好いいこと言って」

五島「事実だ」

南雲が朝霧を見る。

「行くぞ」

飛鳥「もう!?」

南雲「依頼は終わった」

神宮寺「少し寝かせろ」

南雲「二時間」

飛鳥「短い!」

五島「三時間でいいだろ」

南雲「二時間半」

飛鳥「交渉成立みたいにしないで!」

ミラがこちらへ来る。

「ありがとう」

神宮寺「俺たちは荷物を運んだだけだ」

ミラ「それでいい」

五島「そうだな」

ミラが飛鳥を見る。

「さっきの火」

飛鳥「……見えてたんですか?」

「形は見えなかった」

中央の鉄籠を見る。

「でも、何か、いたんでしょ」

飛鳥「たぶん」

ミラ「連れていくの?」

飛鳥が少し考える。

「違うと思います」

一拍。

「ここにもいる」

自分の胸元を見る。

「私のところにもいる」

小さく笑う。

「多分、そういう火なんです」

五島「所有しないんだろ」

飛鳥「聞いてたんですか?」

五島「聞こえてた」

「契約条件は見えてないでしょう!」

「お前が全部喋ってた」

飛鳥「……」

神宮寺「いつものことだな」

飛鳥「恥ずかしい!」

ガラムが後ろに立っている。
膝はまだ痛む。だが、表情は昨日とは違っていた。

神宮寺「来年もやるのか」

ガラム「知らん」

飛鳥「えっ」

ガラムがミラを見る。

「決めるのは、もう俺だけじゃない」

ミラが少し笑う。

中央の火。
残った最後の炭が、小さく、赤く光った。

昼。
村の入口。

二頭の馬が荷馬車へ繋がれている。
来た時とは違い、荷台は空だった。
少しだけ、軽い。

ブラニ「いい祭りでした!」

飛鳥「眠い……」

五島「寝ればいい」

飛鳥「歩きながら!?」

神宮寺「今日は馬車だ」

飛鳥「乗ります!」

南雲「落ちるな」

飛鳥「子ども扱い!」

飛鳥が荷台へ転がり込む。
五島も乗る。
神宮寺が御者台へ上がる。

ブラニがその横へ座ろうとする。

南雲「待て」

ブラニ「え?」

南雲「今日は俺がやる」

ブラニ「まだ三分しか経験してません!」

南雲「十分だ」

ブラニ「短い!」

飛鳥「御者技能が育たない!」

南雲が手綱を握る。
荷馬車が動き出す。

カラ。カラ。

霧が少しずつ晴れていく。
白い布の道標が、風に揺れる。

ブラニが振り返る。
村はもう、霧の中。見えない。

「来年も、あるんですよね」

神宮寺「多分な」

ブラニ「ちゃんと同じ祭りですか?」

誰も、すぐには答えない。

五島「違うだろ」

ブラニ「え」

「来年なら、来年の祭りだ」

ブラニ「……」

五島「同じ必要はない」

南雲「前を向け」

ブラニ「はい!」

前を向く。
道が続く。

荷台。
飛鳥が横になりながら、分厚い本を抱えている。

《旅人のためのヘブライ語基礎講座》

その指先。
小さな橙色の光。

ポッ。

飛鳥「え」

小さな火が揺れる。

ブラニ「火守さん!」

飛鳥「出た!」

五島「灯火だな」

飛鳥「本当にこれだけ!?」

南雲「十分だろ」

神宮寺「本が読める」

飛鳥「用途が地味!」

五島「語学書を読め」

飛鳥「結局そこ!?」

小さな炎が、飛鳥の指先で、暖かく揺れる。

飛鳥は、ふと振り返った。
白い霧。もう、村は見えない。

それでも。
あの村のどこか。
ガラムの家。ミラの家。子どもの家。
それぞれの炉で、同じ火が、今も燃えている気がした。

飛鳥は指先の火を見る。

「……同じじゃないけど」

炎が揺れる。

「繋がってるんだ」

誰にも聞こえないほど、小さな声。
火が、一度だけ、明るくなった。

《名なき火守》。

初めて結んだ召喚契約。
今使えるのは、借りた《灯火》だけ。
詠唱も。術式も。知らない。
ヘブライ語も、アレフとベートくらいしか分からない。

飛鳥「今日から、勉強ですか……」

五島「昨日からだ」

飛鳥「寝かせてください」

神宮寺「三時間くらい」

南雲「二時間半」

飛鳥「そこまだ続いてたんですか!?」

笑いが山に響く。

馬の蹄。車輪の音。
小さな火も、揺れた。

運んだのは、塩と、薬草と、祭具だった。
世界は、救っていない。
終わるはずだった夜に、来年が一つ増えただけだ。
欠けたまま、火は渡された。

荷馬車は、山を下る。
白い布が、風に揺れる。
その先に、黒鉄都市ヴァルハイト。

まだ、終わらない。
道は、続いている。

――【JACK】─外典 途中の世界/第十三夜 継ぐ夜 完

──全部じゃなくていい。
受け取れる分だけ、受け取って。

受け取れる分だけ、受け取って。
そして、自分の分を少し足して、次へ渡す。
《継ぐ夜》を彩る、名なき火守と継承の歌。

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