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婚活と子育てが、同じ形に見えた

「いい人が現れたらいいのに」
婚活の中で、この言葉を言う人は、なかなかうまく行かないと聞きました。

その言葉を聞いたとき、なんとなく引っかかるものがありました。

いい人が現れるのを待っている。
いつか自分に理想の人が現れるに違いない。

そういうことなのかも、と思ったとき、まったく違う本のことを思い出しました。

『夜と霧』です。
第二次世界大戦中、ユダヤ人強制収容所での日々を書いた、フランクルという人の記録です。

その中に、こういう話が出てきます。
クリスマスには解放されるらしい、という噂が流れた。
多くの人がそれを信じた。
けれどクリスマスは、何ごともなく過ぎていった。
その直後に、亡くなる人がとても増えたそうです。

一方で、生き延びた人たちがいる。
その人たちが見ていたのは、収容所の外にある世界でした。

自分が帰る家。
待っている人。
やりかけの仕事。

自分が、外に出た時に、どう生きていくのか?を
収容所の中で考え続けた人たちが生き残った。


「いい人が現れたら」と、
「クリスマスが来たら」。

置かれている状況はまったく違います。

でも、私にはどこか、同じ形に見えました。

人生が進んでいくのは、何かが叶うまで待つのではなく、自分がどちらを向いて歩いているのか、なのかも。

そんなことを考えていたら、急に自分の足元の話になりました。

子どもがいい学校に入ったら。
ちゃんと就職したら。
手がかからなくなったら。

そう思っているとき、その子の未来を見ているようで、実は、自分の未来も見ているのではないかと思うんです。

この子がこうなったら、
私は安心できる。

この子がうまくいったら、
私も幸せでいられる。

そのこと自体は、たぶんとても自然なことです。

親だって人間ですから。

ただ、そこから先が少し危ない。

子どもに、自分の望む未来まで連れていってもらおうとしてしまう。

この子がうまくいけば、私の未来もうまくいく。

そう思った瞬間、
この子には失敗してほしくない、という気持ちが強くなる。

子どもの未来というと、大学や就職のような、ずっと先の大きな話に聞こえるかもしれません。

でも、これって、もっとずっと前から始まっている気がします。

歩けるようになったら。
字が書けるようになったら。
おむつが取れたら。
ひとりで寝られるようになったら。

あの頃、それを目標にしていませんでしたか。

私は、していた時もあった気がします。

でも不思議なことに、それができるようになった日のことを、私はそんなによく覚えていません。

ひとつできたら、次の「〇〇になったら」に意識が移ってしまうからです。

歩けたら、次はしゃべれたら。
小学校に入ったら、次は勉強ができたら。
高校に入ったら、次は大学。
大学に入ったら、次は就職。

条件が、ずっと先へ先へ動いていく。

いつまでたっても、「まだ」なんですよね。

大学に入っても、
就職しても、

「で、これからどうするの?」

目の前に子どもがいるのに、頭の中では、その子の未来ばかりを見て話してしまう。

しかも、そのとき思い浮かべている未来は、
本当にその子が望んでいる未来なんだろうか。

こう書いていると、まるで私が全部わかっているみたいですが、そんなことはまったくありません。

お金やビジネスでは、いまだに試行錯誤しています。

この頃も、クレジットカードの明細を見て、「あれ、なんか使い方がおかしいな」と思って、そこから考え直しているところです。

まだ途中です。
だから、「条件を決めてはいけない」という話ではありません。

目標を持つことが悪いとも思いません。

ただ、ときどき思うんです。

あのとき私は、何を待っていたんだろう、と。

いい人が現れたら。
クリスマスが来たら。
この子が歩けるようになったら。

形は違っても、「自分以外の何かが動いたら、人生が次へ進む」というところでは、少し似ています。

じゃあ、どうすればよかったのか。
その答えを、私はまだ持っていません。

ただ最近、よく自分に聞く問いがあります。

私は今、未来に向かって何をやっているだろう。

子どもにではなく、
誰かにでもなく、
自分に向けて聞く問いです。

大きなことじゃなくてもいいんだと思います。

今日ひとつ連絡する。
一ページ読む。
少し歩く。
ひとつ片づける。

未来のほうから何かがやってくるのを待つのではなく、こちらから、ほんの少し未来のほうへ動いてみる。

今のところ、それくらいがちょうどいい気がしています。



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