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ハイアンドファー 第2話

 洋介がセブンスターの箱を僕の前に差し出した。数か月前までマイルドセブン愛好家だったのだが、マイルドの意味を知って転向した銘柄を差し出したのだ。僕は普段は吸わなかったのだが、なんとなく旅の空で断るのは無粋な気がして、一本ご相伴にあずかることにした。
「今日は吸うんやな」洋介が百円ライターで、僕の口元に火を点しながら言った。
「勧めるから」
「いつもは勧めても吸わへんやん」
「旅は道連れですわ」
「そうでっか。ほんで此処、ドコ?」
「どこ?」ほぼ希望で答えた。「信州」
「いつから?」
「山の上が県境と違うの。下りばっかりになってるから、もう信州やろ」
 洋介が少し沈孝した。僕は彼の言葉を待った。
「そうか信州か…」大儀そうに言った洋介が続けた。「それで山を境に天気も変わるんか?」
「多分」適当を続けた。向こうも適当だ。此処が地図上の何処に当たるかなんて、雨の中では考えもしなかった。向こうもそうだろう。山の中、それだけだ。
 アルプス越えに高速は禁忌だ、と洋介が言った。それで下道ばかりで夜明けの中津川に辿り着き、朝もやの呆けた町を抜け、地図もなく頭上の青看板だけを頼りに山中へ分け入った。恐らくかなりの遠回りもしていたことだろう。今までに経験したことのない曲がりくねった道を喰らった。急カーブの連続は恐ろしかった。とぐろを巻き空に向かい、上がりきると、とぐろを巻き谷の下へ。遊園地の乗り物なんて馬鹿らしくなる。こっちは自分の腕だけが頼りだ。どこかのカーブで恐怖心が置き去りになり、愛車を傾けるリズムが心地よくなった。知らぬ間の出来事だった。そしてスピードと興に乗った。洋介と何度か先行を交代しながらいくつもの山を越え、気付いたらバス停に濡れ鼠二匹になっていた。
「時刻表に毛沢山って書いてあった」時刻表をこなして言った。
「何市の?」
「さあ。何郡何村かもな」
「その可能性の方が高いけど、どっちにしても今日中に高遠に着けばええんや。反対方向に走ったりしてないよな?」
「知らん。そもそも高遠に行きたいんは、お前だけや」
 この急な旅に思い立ったのは洋介の方だった。彼曰く、高遠は哀しい女の生まれた町なのだそうだ。彼が夏の初めに見た刑事ドラマの犯人、その女は東京の新宿のビル街で命を終えた。誰か分からぬ男の死体の一部を持って。間もなく割れた女の身元を洗う刑事たち。やがて男の素性も分かり、刑事たちは述懐する。女の半生を。田舎娘が都会に出て来て恋をして、そして誑かされ、憎い男を殺めた後も尚、その男を愛し続けた。そんな女の故郷が高遠なのだ。
 意味不明な動機だった。しかも再放送だ。一人で行け、と言ったが結局、同行してしまった。それは彼の失恋が原因だった。失恋した男が哀しい女の故郷に行きたい、と宣えば、一人で行かすわけにはいかなかったからだ。
「雨の信州か…」咥え煙草で洋介が誰に訊かせるでもなく、ポツリと呟いた。切り取ってもポスターにはしない光景だった。
「雨ん中行くか?」取り敢えず行く気はなかったが、訊いてやった。
「いや、止んでからにしよ。もう信州入ってんのやったら二三時間もあったら、高遠まで行けるやろ」
「そんな近いの?」信州の地理なんてまるで入っていない。意外だったので口に出た。
「半日は掛からん筈。今、ここは飯田の手前らへんやと思うから」
 洋介によると、飯田は信州の南の端。東を南アルプスに西を中央アルプスに、南をよく分からん山脈に囲まれた谷の最深部。南信州の地獄の行き止まりだそうだ。三方を険しい山脈に囲まれているため、飯田を要する伊那谷は中央アルプスを挟んだ反対側の木曽谷に比べ、不遇を極め続けた。江戸時代の中山道制定からしてそうだ。江戸から諏訪湖、塩尻まで上がり、木曽谷を抜け、京に至る。国鉄中央線にしてもそうだった。熾烈な誘致合戦に敗れ木曽谷の後塵を拝した。時の逓信省鉄道局長だった飯田出身の代議士伊藤大八が伊那谷に鉄路を通すべく諏訪湖と塩尻の間を直線的ではなく、上伊那の辰野経由に湾曲して通した通称大八廻りが、せめてもの抵抗だったくらい。
 今も伊那谷には都会まで伸びない飯田線という名うてのローカル線しか存在しない。
 伊那谷に日が差すのは昭和の半ばも過ぎ、中央高速が開通してからだ。東京から来て諏訪から伊那谷を縦断して飯田まで南下した高速道路は中央アルプスを恵那トンネルで貫き、中津川に至り、中京の市街を目指す。この時ようやく伊那谷の住人は急峻な山越えせずとも太平洋側へ抜けることが出来るようになった。飯田が南信州の地獄の行き止まりでなくなったのだ。ここいらは、そんな中世からの鬱屈をため込んだ谷だ。勿論、彼曰くだが。
 恐らくこれが、彼がアルプス越えに高速を使わせなかった理由であろうと邪推した。
 山は越えるもので、抜けるものではない、と。何となく彼が言いそうな惹句だった。
「飯どうする?」感傷を伴わず言った。
洋介が腕のデジタル時計を見て応えた。「八時ちょい前か」
コマーシャルの通りなら、この雨くらいでは狂わないだろうから正しい時間だと思われた。
と、すると事の成り行きから京都の家を出たのが夜の十一時頃で、大津、彦根、米原、大垣、一宮、小牧、多治見と青看板を数珠つなぎに走って、夜明けの中津川。そして今はアルプス越えの真っ最中。夜通し走りっ放しの空腹というやつに分類される状況だ。
「俺は別に腹減ってないけどな」と洋介。
 それは失恋に伴うもので、こちらの空腹感とは結び付いてはいない旨を具申してやろうかとも思ったが、捨て置いやって一言だけに留めた。「俺は空いてる」
 暫しの間。雨は止まない。
「でも、こな辺は何も無いぞ。御覧の通りの山の中やしな。飯田まで下りな無い」
「ほな、飯田まで下りてモーニングやな」
「モーニングは諦めろ」空を遠そうに睨んだ洋介が言った。「雨だけと違て、飯田に適当な喫茶店があるかも怪しいぞ。朝通った中津川と、どっこいどっこいの町やろうから」
「行ったことは?」
「勿論無い」
 だろうな、である。ただ青看板に踊る文字の頻繁度や大きさからみて、地域最大の町であることだけは窺えたので、飯田に無ければ、伊那の谷の中にはモーニングサービスは無い、といって差し支えないのかもしれない。
 雨は止まない。腹は減る。
 洋介が、フィルターの数ミリ手前まで吸ったセブンスターをベンチ下の水たまりに捨てた。咎める気にはならなかった。


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