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自分の成長は、自分では意外と覚えていない

先日、20年ぶり、30年ぶりに、大学時代の友人たちと食事をした。

グラスを合わせ、少し話し始めると、不思議なもので、すぐに当時の空気に戻る。

近況を話し、懐かしい名前が出て、昔の出来事を思い出して笑う。

時間としては随分経っているのに、会話の距離はあまり変わっていない。

そんな楽しい時間だった。

別れ際、友人の一人にこんなことを言われた。

「随分大人になったね」

続けて、

「会話の言葉選びとか、考え方が変わった」

と言われた。

さらに笑いながら、

「若い頃は短気だったから、結婚式のスピーチで短気は損気って言ったけど」

とも言われた。

その言葉を聞いて、なんだか分からないけれど、ものすごく嬉しかった。

褒められたから嬉しかった、というだけではない気がする。

昔の自分を知っている人に、今の自分の変化を見つけてもらえたことが嬉しかったのだと思う。

普段、自分の変化にはなかなか気づけない。

毎日、自分として生きているからだ。

昨日の自分と今日の自分は、大きく変わっていない。

先週の自分と今週の自分も、たぶんそれほど変わっていない。

だから、自分では成長している実感を持ちにくい。

でも、20年、30年という時間を空けて再会した人から見ると、その変化ははっきり見えるのかもしれない。

自分にとっては連続した毎日でも、相手にとっては昔の自分と今の自分が並んで見える。

その差分を、相手が教えてくれる。

考えてみると、自分は20代の頃の自分をあまり覚えていない。

もちろん、出来事はいくつか覚えている。

誰と何をしたとか、どんな仕事をしていたとか、どんな失敗をしたとか。

でも、その頃の自分が、どんな言葉を選び、どんな態度で人と話し、何に腹を立て、何を大切にしていたのか。

そういう細かい部分は、あまり覚えていない。

自分では、自分のことを分かっているようで、意外と覚えていない。

もしかすると、昔の自分の輪郭は、自分よりも周りの人の記憶の中に残っているのかもしれない。

若い頃、短気だったと言われても、自分ではそこまでの実感がない。

でも、そう見えていたのだと思う。

自分では正しいと思っていたことも、相手から見れば余裕がなかったのかもしれない。

自分では真剣だったつもりでも、誰かには少し怖く見えていたのかもしれない。

そう考えると、少し恥ずかしくもある。

でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

むしろ、そういう自分がいたから、今の自分があるのだと思えた。

人は、ある日突然、大人になるわけではない。

たくさん失敗して、言いすぎて、後悔して、うまく伝わらなくて、少しずつ言葉を選ぶようになる。

正しさだけでは人は動かないことを知り、相手にも事情があることを知り、自分の感情をそのまま出すだけでは何も進まないことを知る。

そうやって、少しずつ変わっていく。

でも、その変化はあまりにもゆっくりだから、自分では気づけない。

今日、友人に言われて思った。

成長とは、自分で強く実感するものというより、ふとした再会の中で、誰かに見つけてもらうものなのかもしれない。

「変わったね」

その一言には、長い時間が含まれている。

昔の自分を知っている人だからこそ言える言葉がある。

そして、その言葉によって、自分では忘れていた時間の積み重ねに気づくことがある。

20代の自分は、たぶん短気だった。

未熟だったし、余裕もなかったのだと思う。

でも、その頃の自分も、自分なりに必死だった。

そして今の自分も、まだまだ完成しているわけではない。

これから先、また10年、20年経ったとき、誰かに「また変わったね」と言われるかもしれない。

そのとき、自分ではまた覚えていないのだと思う。

でも、それでいいのかもしれない。

自分の成長は、自分では意外と覚えていない。

だからこそ、久しぶりに会う人の言葉が、時々、自分の人生をそっと照らしてくれる。