尊厳という言葉には、矛盾がある――清潔を守ることと、恥ずかしさを守ること
尊厳を守る。
看護でも介護でも、当たり前のように使われる言葉です。
私も何度も口にしてきました。研修でも聞きますし、記録にも書きます。
でも最近、この言葉について立ち止まって考えることがありました。
尊厳を守るというとき、私たちは何を守っているのだろう、と。
きっかけは、おむつの話でした
先日、おむつの業者さんの研修を受けました。
新しい製品を使えば、交換の回数を1日2回まで減らせるという内容です。
そのことについては、前に一度書きました。
おむつ交換は、される側にとって恥ずかしい時間です。人前で下着を脱ぎ、体を委ねる。認知症であっても、その感覚が消えるわけではありません。
だとすれば、回数が少ないほうが本人のためではないか。
回数を減らすことは、業務効率の話ではなく、その人の尊厳を守ることでもあるのではないか。
そう考えて、いったんは納得しました。
でも、あの記事を書き終えたあとも、すっきりしないものが残りました。
今日はその、残ったもののほうを書きます。
それは、本当にそうだろうか
汚れたものを身につけたまま、何時間も過ごす。
もし自分がその立場だったら、と考えます。
やはり、気づいたらすぐに替えてほしいと思うはずです。濡れたまま横になっているのは、それ自体がつらいことです。
排泄のたびに交換されるほうが、人としてまっとうな扱いではないか。
そう考えると、さっきの結論はひっくり返ります。
つまり、こういうことです。
恥ずかしさを減らそうとすれば、不快な時間が長くなる。
不快を減らそうとすれば、体をさらす回数が増える。
どちらも、その人の尊厳を守るためのことなのに、二つは正反対を向いている。
尊厳という一つの言葉の中に、はじめから矛盾が入っているのだと思いました。
念のため書いておくと、前に書いたことを取り消したいわけではありません。
羞恥心に配慮することは、やはり大切です。そこは変わりません。
ただ、それだけで説明がついたと思っていたことが、間違いだったのだと思います。
守るべきものは、ひとつではありませんでした。
看護師としては、清潔のほうを見ている
正直に書きます。
看護師としての私は、どちらかというと清潔のほうを見ています。
皮膚が湿った状態が続けば、皮膚炎になります。褥瘡のリスクも上がります。傷ができれば、治すのに何倍もの時間と苦痛がかかる。
これは価値観の話ではなく、身体に起きる事実です。
だから私たちは、洗浄をして、乾かして、保護をします。
そこに議論の余地はありません。医療者としては、そう教わってきましたし、そう動きます。
けれど、その正しさだけで動いていると、見落とすものがあります。
その方が、そのとき、どんな気持ちでいたか。
処置は正しく行われて、皮膚は守られて、記録もきちんと残る。
でも、その方が恥ずかしい思いをしたかどうかは、どこにも残りません。
手を払われるとき
ここまで「その人にとって何がつらいかを、一人ずつ考えるしかない」と書いてきました。
でも、正直に言うと、そこにいちばん大きな壁があります。
本人に聞けないのです。
認知症が進むと、言葉でのやりとりが難しくなります。「今日は替えてほしくない」とも「濡れていて気持ち悪い」とも言ってもらえない。
こちらは推測するしかありません。
そして、はっきりした形で返ってくるのは、たいてい抵抗です。
手を払われる。体をよじる。声を上げる。
現場で感じるのは、その抵抗が特定の場面に集中しているということです。
入浴のときの脱衣。おむつ交換。
つまり、服を脱ぐ場面と、下半身を見られる場面です。
その「嫌だ」の中身が分からない
ただ、そこから先が分かりません。
手を払われたとき、それが何を意味しているのか。
恥ずかしいのか。冷たい、痛いといった感覚が嫌なのか。何をされるか分からなくて怖いのか。目の前の人が誰か分からなくて不安なのか。あるいは、ただいまは触られたくないだけなのか。
全部、同じ「嫌がる」に見えます。
でも、それぞれ対応が違います。
恥ずかしさなら、露出を減らす。恐怖なら、先に説明する。感覚の問題なら、温度や手順を変える。関係性なら、担当を替えてみる。
読み違えると、良かれと思ってしたことが逆に働きます。
表情を見れば分かる、とも言えない
では、よく観察すればいいのか。
そう書きたくなるのですが、実際はそう簡単ではありません。
進行した方だと、そもそも表情の変化が乏しいことがあります。
無表情のまま交換が終わる。それが「気にしていない」なのか「もう諦めている」なのか、私には分かりません。
声が出た場合も、それがいま触られたことへの反応なのか、さっきあった別のことの余韻なのか、何とも結びつかない発語なのか、判断がつきません。
その場で起きたことと、その方の中で起きていることが、うまくつながらないのです。
そして、日によって違います。
昨日は穏やかに終わった方が、今日は激しく抵抗される。同じ手順で、同じ人が入っても。
そうなると「この方は抵抗が強い」という見立てそのものが、あやしくなってきます。
立ち止まって考える時間が、ない
もうひとつ、はっきり書いておきたいことがあります。
こういうことを、業務の流れの中で考えるのは、ほとんど無理です。
次の方が待っています。その次の方も待っています。
いま起きた反応の意味を、その場で立ち止まって考える時間は、ありません。
気になったことがあっても、手が止められない。
そして次の場面に移ったころには、さっきの表情のことは頭から消えています。
アセスメントというのは、本来そういう作業だったはずです。よく見て、考えて、仮説を立てて、また試す。
でも実際の病棟では、見ることと動くことが同時に進んでいて、考える時間だけがどこにもありません。
さらに言えば、関わり方は人によってまったく違います。
同じ方に対しても、スタッフによって声のかけ方も、触れ方も、間の取り方も違う。
その違いが結果に影響しているはずなのに、そこまで揃えて比べることは、現実にはできません。
だから、こういう言い方になります。
分からないまま、その日の業務を進めている。
それでも、伝えられている
ひとつだけ、最近考え方が変わったことがあります。
抵抗を「困った行動」として見るのをやめてみる、ということです。
言葉で「やめてほしい」と言えなくなっても、手を払うことは、立派な伝達です。
本人は伝えている。受け取れていないのは、こちら側です。
そう考えると、「介護抵抗のある方」という言い方も、少し違って聞こえてきます。
抵抗しているのではなく、残された方法で意思を示している。
そう捉え直したところで、業務が楽になるわけではありません。むしろ、一つひとつを読み解こうとするぶん、手間は増えます。
でも、「また抵抗された」と思うのと、「何か伝えようとしている」と思うのとでは、こちらの心の位置がずいぶん違います。
同じ場面に立っていても、見えるものが変わる気がしています。
病棟では、看護と介護の境目がない
もうひとつ、書いておきたいことがあります。
本来、看護師の役割は医療的な部分です。傷の処置、皮膚の観察、全身状態の把握。
一方で、おむつ交換や入浴といった日常の生活援助は、介護の領域が大きい。
でも、私の働く病棟では、その境目はほとんどありません。
看護師がおむつを替えますし、食事も介助します。そうしないと、業務がまわらないからです。
これは悪いことばかりではないと思っています。
体に直接触れる時間があるからこそ、皮膚の変化にも、その日の様子にも気づけます。医療の目を持ったまま生活援助に入れることには、確かに意味があります。
ただ、二つの役割を同時に背負っているぶん、迷いも二重になります。
看護師としては、清潔を保ちたい。
でも生活を支える立場としては、この方の気持ちのほうを大事にしたい。
その両方が、同じ場面で同時に立ち上がってくる。
どちらかに寄りきれないまま、目の前のことを進めていくことになります。
答えは、その人ごとにしかない
では、どうすればいいのか。
私はまだ、はっきりした答えを持っていません。
ただ、いま思っていることが二つあります。
ひとつは、答えが一律には出ないということです。
不快をより強く訴える方もいれば、体をさらすことへの抵抗が強い方もいます。皮膚の弱さも人によって違います。
だから「全員1日2回」も「全員排泄のたび」も、どちらも正しくありません。
この方には何がつらいのか。それを一人ずつ考えるしかない。
手間のかかる話です。でも、その手間こそがケアなのだろうと思います。
もうひとつは、問いを「何回か」から「どう替えるか」に移してみることです。
声をかけてから触れる。必要以上に露出させない。手早く済ませる。カーテンをきちんと閉める。
そういう一つひとつが積み重なれば、1回の交換が本人にとって侵襲的でなくなるかもしれません。
そうなれば、回数の議論そのものが、少し軽くなる気がします。
とはいえ、その「丁寧に」がいちばん難しいのが現場です。時間に追われながら、立ったまま装着することもあります。
理想の話をしているという自覚は、あります。
分からないと言っておきたいこと
最後に、正直に書いておきます。
認知症の方の羞恥心が、実際どの程度残っていて、何に対して働いているのか。
私には、はっきりとは分かりません。
見られることが恥ずかしいのか、されるがままでいることがつらいのか、知らない人が近づいてくることが怖いのか。
たぶん、その全部が混ざっています。そして人によって、混ざり方が違います。
もしかしたら、回数よりも「誰が替えるか」のほうが大きいのかもしれません。慣れた人になら平気で、知らない人だと1回でもつらい、ということは十分ありそうです。
これは私の推測で、根拠は示せません。
でも、分からないままにしておくことにも、意味があると思っています。
分かった気になった瞬間に、目の前の人を見なくなるからです。
尊厳を守る、という言葉は便利です。
使えばそれらしく聞こえるし、誰も反対しません。
でもその中身を開けてみると、守るべきものが複数あって、しかも互いにぶつかり合っている。
だから、その言葉を使うたびに、私は少し立ち止まりたいと思っています。
いま自分は、この方の何を守ろうとしているのか。
そして、そのために何を諦めているのか。
答えは出ないままですが、その問いを持ち続けることが、たぶん一番大事なことなのだと思います。
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答えは出ないままですが、
問いを持ち続けながら、今日もできることを一つずつ探しています。
その"できること"を具体的にまとめた記事はこちらです。
▶「尊厳を守る」その先へ――抵抗を減らす、現場のことばと手の運び
