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ねじの分度器


 


_______ 白い海、青い夢



眠りは深さを夢みる。
夜の底からは、決まり切った暗墨と光が立ち現れていた。
海は自らの重力に耐えかね、凝固した黒い皮膚のように横たわり、対岸には無数の灯火がにじんだ油のごとく明滅している。

天上の星辰にはなれない、海辺に整然と起立する構造物。
影を支配する声。血流のもれ出た光群。
距離があるはずなのに、鼓膜の裏側では低くうなるような震動が、微熱をともない響き続けている。


石油コンビナートが放つ音色は美しい。



気がつけば、すぐ隣を潜水服の人影が歩調を合わせていた。
微かな磯の香りが金属片を伝って、夜の空気を沈めている。
古い映画で観たことのあるごわついた重み。丸いレンズが顔に張り付いている。
潮風を吸った真鍮のヘルメット、砂を圧する靴、深海に淀んだ身体。
鈍重な足取りを、夜の渚が寄せては返す波の規則正しさで、そっと迎え入れては吸い込んでゆく。

わたしは闇を透かすほどに薄い、純白のドレスをまとっていた。

夜風の通り抜けるたびに、裾が驚いた水面のように揺らめく。
華やぎは海の底から届けられた贈り物。渦巻く時間が遠い過去へわたしを連れ戻した。



おさない目が見つめた近所の日向。三輪車の風向き、太陽の静けさ。
どこまでもたゆたい続けたおぼろな影。
わけも分からず、寂しさが訪れた真夜中の目覚め。わたしは深い眠りの森から、窓辺の向こうの昏い海を見ていた。
人影が月光に映しだされる。あり得るはずのない、夜の海水浴。

潜水服の素顔を覗き込もうと試みても、曇ったレンズは視線を交わらせることを許さない。
呼び止めようと唇を開いた刹那、夢の回路が不意にほどけ、わたしは朝の淡い光のなかへ投げ出されていた。
浅瀬に記憶は沈みきれない。



夢の灯の代わりに広がった生温かい曇り空を眺める、休日の薄暗い昼下がり。
わたしは目を細め、残光を反芻していた。

「この町の大きな夜景」

SF映画の色合いや、おとぎ話のひろがりが胸に溜まった。
次第に増えていったクレヨンの色彩と文房具。懐かしさが変色する一方、見果てぬ空気は底抜けになった。
浦島の子が竜宮城から戻ったときには、地上では途方もない時間が流れていた。

夢の中のわたしは紛れもなく、いつも純白のドレスに身を包まれている。
しかし、乙姫さまを求めるにしては、この艶やかな装い。
色彩を隠すために、鏡面に歪みが生じているのだろうか。瀬戸内海に流れた昔の歌がふとよぎる。

海の向こうで輝いていたコンビナートの光群は、この町には存在しない。
赤茶けた旧式潜水服だって同じこと。


わたしが求めているものは、いつも霞んでいた。
潜水服の人影だってわたしを目指して歩いてはおらず、古い未来の光に導かれ、同じ孤独を共有しているだけかも知れない。


ある夜、古い真鍮製の双眼鏡を枕元へ置いてみた。
しきたりのように祖父が残した、赤錆に侵され、黴を吸った道具。
押入れの奥から音が響く幻聴。
夜の儀式だった。
対物レンズを逆さに覗き込み、夢の夜景を手の届かないまで小さく遠ざける。
するとコンビナートの煙は糸のように縮れ、煙突はやせ細った蝋燭と化し、銀色の建屋は湿気ったマッチ箱になる。
夢の精度、それは祈りにも似た試みだった。
眠りは静かに傾斜し、確実にわたしを侵食する。

現れた夢の海岸は相変わらず冷たさを保っていたが、対岸のコンビナートの灯はやや遠く、静かにまたたいている。風は途絶え、海面は鏡のようになめらかになり、影を嗤っていた。

歩みを止めた潜水服の人影が、初めてこちらを振り向いた。
丸いレンズの奥は、夜の闇よりもさらに濃い黒に満たされていて、何も見えない。それでも、なおもこちらを見つめようとする、視線の重みだけが伝わってきた。吐く息は曇っていない。
厚く被われた潜水服の生地のなかで、夜気と一緒に淀んだ体温が、コンクリートの冷たい地面へこぼれ出した。
ゆっくりと、真鍮の関節が軋むような気配をともなって、首のねじに手をかけた。音のない回転が砂地をなでつける。
わたしは胸が苦しくなるほどに高鳴り、皮膚の輪郭が、闇の彼方に溶け出していくような痛みを覚えた。

しかし、影が取り払われ、その内実が露わになる直前、夢の結び目は失われてしまった。


目覚めた部屋は青く明るい。
窓の外では、朝の光が隣家に残った瓦屋根を照りつけている。
潮騒が風に運ばれてくる時間をわたしは数えてみた。
声に出さず、指も折らず、胸の鼓動に頼らず。


「野鳩啼く 床に伏せし 親のゆび」


双眼鏡の箱の裏には、そんな句が赤ペンで書かれていた。
わたしは窓辺に立ち、夜の水平線の角度を重ねていた。