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#23「出雲神話のかたち」 大国主命視点から見た出雲神話⑦ ー加茂岩倉遺跡とは何だったのか その2〈「×」印の意味〉ー

  前回、加茂岩倉遺跡から「国造り」が何であったのか、考察してきた。今回はそれを踏まえて、加茂岩倉遺跡からこの遠距離交易集団の同盟がどうなったかを考察していきたい。

 加茂岩倉遺跡の銅鐸群は出雲の同盟者たちが集まるときに行う祭祀なのではと考えてきた。その祭祀は、同盟者が亡くなった時に、その現地で二次葬を銅鐸(30cm前後)を使って行い、そして年に一度、交易の終わりである秋の時期に出雲に同盟者たちが集まった時に再度、銅鐸(45cm前後)を使って何らかの儀式を行うというものではないかと考察した。

 つまり加茂岩倉遺跡は19拠点の同盟者たちを祀るために用意されたものだったということもできる。それは入れ子銅鐸の組数でも当てはまる。加茂岩倉遺跡で発見されたのは39個の銅鐸であるが、それは19組の入れ子セット(1個だけ45cmの銅鐸があぶれるが)といいかえることができることからも間違いとはいえないであろう。

 では、この加茂岩倉遺跡の銅鐸群から何が読みとれるのかを考えていこう。そのためには銅鐸に着けられた「×」印が重要な意味を持ってくる。

出土した銅鐸の中の13個に、作った後「×」印をしたものがありますが、神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣358本の内344本にも「×」印があり、埋蔵したそれぞれの集団に強い関係があったのではないかと、注目されています。この「×」印には、作者や工房の目印、持っていた集団の目印、霊力を封じ込めるまじない・・・などいろいろな仮説があります。

加茂岩倉遺跡・雲南市HPより

 加茂岩倉遺跡の銅鐸には13個に「×」印の刻印が刻まれている。その内訳は12個の45cm前後の銅鐸と1個の30cm前後の銅鐸である。この中で1組の45cm、30cmの銅鐸だけがそれぞれに「×」印の刻印が刻まれていることになる。このことは出雲において重要な意味を持っているが、それについては後で考察することにする。

 神庭荒神谷遺跡の銅剣にも加茂岩倉遺跡の銅鐸と同じように「×」印の刻印が刻まれていたという話を前にした。それは銅剣に二次葬の使用回数を刻んだものであると考察した。

 それを踏まえると、加茂岩倉遺跡の銅鐸に刻まれた「×」印の刻印も使用済みの印であると考えることができる。すなわち、加茂岩倉遺跡の場所で少なくとも19拠点の同盟者のうち、11人の葬儀に関する祭祀を行ったと言い換えることができる。

 それでは30cmと45cmの両方に「×」印の刻印が刻まれている入れ子銅鐸の一組は何を意味しているのか。30cmの銅鐸にも「×」印の刻印が刻まれているということはこれのみ、出雲の誰かを祀ったものということになる。19拠点の同盟者の祀りに匹敵する出雲の有力者とは誰なのか。その人物は思いつく限り、一人しかいない。

30cmと45cmの両方に「×」印の刻印が刻まれている入れ子銅鐸の一組は大国主命の葬儀に関して使用されたものである可能性が高いということである。

 大国主命の葬儀?それでは古事記の記述と合わないことになる。大国主命といえば「国譲り」の際に、国を譲る代わりに自分の神殿を建ててくれるようにお願いしたとされる。

国譲り

「国譲り(くにゆずり)」とは、日本神話において、地上の国(葦原中国・現在の日本列島)の支配権が、大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)から天照大御神(アマテラスオオミカミ)の血筋へ譲られたとする重要な神話です。 
1. あらすじ
天上の神々(天津神)は、地上が荒れていることを憂い、平定と統治のために様々な神を地上へ遣わしました。最後に遣わされた武甕槌命(タケミカヅチノカミ)と経津主神(フツヌシノカミ)が、地上を統治する大国主大神に国を譲るよう迫ります。大国主大神は息子たち(事代主神と建御名方神)の同意も得て、平和的にこの申し出を受け入れました。
2. 条件とその後
大国主大神は「代わりに自分を祀る立派な宮殿(現在の出雲大社)を建ててほしい」という条件を出し、それを認められて隠退しました。これにより、天津神の子孫であるニニギノミコトが地上の統治者として降り立つ(天孫降臨)ための基盤が整いました。
3. 重要な意味
この神話は、天皇が日本を統治する正当性を裏付けるための重要な役割を果たしており、日本神話(『古事記』や『日本書紀』)のハイライトの一つとされています。

AIより作成

 しかし、加茂岩倉遺跡の「×」印の刻印を刻んだ1組の入れ子銅鐸は、「国譲り」以前に神殿を建てていたということを示している。これはいったいどういうことなのであろうか?

 それについても「古事記」はスサノオが与えた大国主命の試練でこう述べられている。

スサノオは、黄泉比良坂まで追いかけてきましたが、はるか向こうに逃げていく二人に向かって大きな声で言いました。
「おまえの持っている生大刀と生弓矢で八十神を追い払え。そして、オオクニヌシと名のり、スセリビメを正妻として宇迦山(うかのやま)のふもとに
柱を太くして、屋根が天までとどくような宮を建てて住め。
こいつめ。」
このようにして、オオクニヌシという名となったオオアナムヂは、八十神を追い払い、国作りをはじめました。

島根観光連盟特設サイト

 この記述は大国主命の住処を表しているのではなく、神殿を造ってそこに祀られることを意味していると考えることができる。つまり、加茂岩倉遺跡の銅鐸から、大国主命は「国譲り」以前に亡くなり、神殿に祀られていたことを表していると考えられる(ということはその祭祀者は事代主命ということになる)。

 そして、このことは「国譲り」によって加茂岩倉遺跡の祭祀が止まってしまったことも表していると思われる。つまり19拠点の同盟者のうち、11人の祭祀と大国主命の祭祀をここで行い、残り8人の祭祀は行われず加茂岩倉遺跡の銅鐸群はその役目を終えたことになる。ひとつだけ入れ子銅鐸になっていない45cmの銅鐸は、30cmの銅鐸が同盟者に貸し出し中だったか、まだ作っていない(集めていない?)まま祭祀を中断されたものと考える。

 つまり「国譲り」までに加茂岩倉遺跡が使用された期間は意外に短く、20~30年前後だったことが、このことから推測できる。

 それではいよいよ「国譲り」が何であったのかを最後に考察していきたい。


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