【馬鹿たるエゴ小説③】 血の匂いとクリエイティブ | さよなら、ミコトちゃん(3)
「馬鹿たるエゴ小説」へようこそ。
賢明に生きることを強いられる世界への、静かな反逆。
「馬鹿たるエゴ小説」とは、理屈では説明のつかない個人的情動を、誰に宛てるでもなく紙の上にぶちまけた「排泄」に近い。 救いようのない独りよがり。=========================================================
さよなら、ミコトちゃん
視界の後ろで、背後の影が膨張する。 振り返る間際、耳元で囁かれたのは、記憶を奪うあの薬の匂いを含んだ吐息だった。
「……まだ、外にいたいの?」
心臓が喉を突き破りそうになる。私は縋るように目の前のドアを押し開けた。 しかし、そこに広がっていたのは、リビングでも、誰かの生活の跡でもなかった。
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そこは、あの「白い独房」だった。
窓はなく、水さえ与えられない、独房。 けれど、決定的な違和感があった。
その部屋の四方の壁がすべて、巨大な「合わせ鏡」になっている。 鏡の中には、無数の私がいた。痩せ細り、日光を浴びていない青白い肌。その無数の私の中心で、ピアノを弾いている私がいる。
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ピアノを弾いているのは、確かに私だった。 いや、私と同じ顔をした、けれど瞳の中に漆黒の穴が空いた「何か」だ。
「あなた、誰なの?」
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震える声で問うと、鏡の中の「私」たちが一斉に鍵盤を叩いた。 ガチャ、ガチャ、ガチャッ、と砕けるような音が部屋を満たす。

足元のタイルに目を落とすと、そこにあった赤褐色の染みは、血ではなかった。それは、砕け散った「四つの文字」の残骸。プラスチックのプレートが粉々に粉砕され、踏み潰されている。
それは「愛して」「ゆるして」なんて、甘い言葉ではなかった。
「コ・ロ・シ・テ」
私が必死に手繰り寄せようとしていた言葉の正体。それは誰かの愛の名前でも、誰かへの懺悔でもなかった。
私が人間であることを放棄したという「証明」だった。
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「おねえちゃん、みいつけた」
背後から伸びてきた手が、私の喉をきつく締め上げる。 背後にはミコトちゃんが立っていた。 病院に残ったはずの彼女。
「ここは天国だよ。外なんて最初からないんだよ」
ミコトの手が、私の紙袋から錠剤を取り出し、無理やり私の口にねじ込む。 錠剤と「四つの文字」が喉の奥で砕け、全身に回っていく。 そして――。
ホワイトアウト。
視界が真っ白に染まる。 死刑囚の独房に似たその部屋には、窓がない。飲み水さえ与えられず、便器の底には水さえない。
喉は、砂漠のように乾いている。
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「ここから出してください」
私は、目の前の看護師に縋り付く。 看護師は冷やかな視線で一瞥し、私の腕に、無機質な針を刺し続ける。 「これ? 頭の中を整理する薬よ」
私の隣のベッドで、ミコトちゃんが私の残したパンを齧りながら、賢すぎる瞳で笑っている。 「おねえちゃん、おかえり。喉が渇いたでしょう?」
それでも私は、また遠くで誰かが弾いているピアノの音を拾い集める。
思い出さなければならないのだ。
たった四つの、大切な文字を。
水彩画のように滲んでいくその文字を追いかけて、私は再び、終わりのない白の中へと沈んでいく。
ピアノの旋律が、再び鳴り響く。
これまでにないほど美しく、透き通った音が、私の欠落を、不思議な快楽と共に、埋めていく。 私はゆっくりと目を閉じ、乾いた唇を震わせた。
「……ころして」
それが、私がこの人生で最後に放った、最も純粋で、あまりに無垢な「四つの文字」。
背後で愛しい誰かが、優しくピアノを弾いている。
真っ白な視界の中で。
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——どこへ行くかなんて、まだ決めていない。
〈あとがき〉
「あなた、誰なの?」という一言に導かれて書き上げた短編です。
タイトル(さよなら、ミコトちゃん)も含め、私の大好きな作品へのオマージュを散りばめてみました。 元ネタがわかった方は、ぜひ答え合わせをしましょう。全問正解者には、何かいいことがある……かもしれません。
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