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残暑こそ、夏を取り返す好機である(耳ビジnote部)

今年の夏、何をしたか。問われて、私は答えに詰まる。酷暑という言葉に怯え、冷房の効いた部屋で原稿を書き、たまに外へ出ては、コンビニまでの100メートルで白旗を上げた。夏を過ごしたのではない。夏から逃げ切っただけである。

そして9月。朝晩の風がわずかに冷たくなった。だが昼間はまだ暑い。この中途半端な季節を、私は「夏の残り湯」と呼んでいる。誰も入らないが、まだ十分にあたたかい。逃げ切った者に、いちどだけ与えられる敗者復活戦である。だから取り返しにいく。行き先は3つある。

ひとつめは海だ。8月末で遊泳期間を終える海水浴場は多い。監視員はいない。海の家は畳まれている。つまり、海は無人である。腰まで浸かって、水平線を眺める。これを寂しいと感じるか、贅沢だと感じるか。その分かれ目に、人生の残り時間の使い方が映る。

ただし、無人の海には作法がある。遊泳禁止の海に入ってはいけない。腰まで、である。クラゲはお盆を過ぎると出るという。真偽はさておき、刺された痛みに季節は関係ない。日焼けも侮れない。涼しくなったと油断した翌朝、鏡には季節外れに赤い顔をした男が映っている。そして台風だ。9月は上陸の多い月である。海へ向かう前に、天気図を1度は見ておきたい。無人の海が無人なのには、たいてい理由がある。

ふたつめはプールである。市民プールの9月の平日は、驚くほど空いている。子どもは学校にいる。若者は来ない。水面に浮かんでいるのは、私と、私より年長の数名だけだ。誰とも競わない。タイムも計らない。ただ浮く。夏に泳ぐのは運動だが、残暑に浮くのは療養である。

みっつめは潮干狩り。正直に言えば、旬は春である。9月に熊手を持って浜に立つ人間は、季節を1つ読み違えた者として扱われる。だが、そこがいい。誰もいない浜で、いるかどうかもわからない貝を掘る。収穫はほぼない。手に入るのは、砂と、静けさと、「自分は何をしているのだろう」という問いだけだ。海とプールが夏を取り返す場所なら、浜は、取り返せなかった夏を引き受ける場所である。これを哲学と呼ばずして何と呼ぶのか。

夏はもう終わった、と人は言う。終わったのは行事のほうで、暑さはまだそこに残っている。予約はいらない。混雑もない。行列にも並ばない。要するにいまの海とプールと浜は、夏から逃げ切った大人のためにできている。

熊手を買ってこよう。旬は逃したが、砂はまだあたたかい。

PS

そんなわけで、都代子姐さん、イベントをお待ちしています。


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