「素直という呪い」


「素直でいて」それは呪いだった。
3,293文字です。


「素直でいて」彼がそう言うとき、私が本当に自分の心を開けば、決まってリビングの空気は薄氷を張ったように凍りついた。
あなたが求めていた「素直さ」とは、私の内側から溢れ出る生身の感情なんかじゃない。あなたの機嫌を損ねず、あなたのプライドを傷つけず、あなたの正しさを完璧に補強するための、ただの「従順」だった。

それに気付き、認め、諦めるまでに、私は10年という歳月を費やしてしまった。
時計の針が刻む規則正しい音が、やけに大きく響く午後。窓からは、夏の強い光が差し込んで、10年間磨き続けたダイニングテーブルを容赦なく照らし出している。その真ん中にぽつんと置かれた、緑色の枠線の紙。判を捺したばかりの離婚届の白さが、目に刺さるほど眩しかった。

「本当に、これでいいんだな」ソファーに深く腰掛けたあなたの声は、低く、どこか他人事のようにリビングの空間に溶けた。その表情には、私の決断に対する悲しみや動揺は微塵もない。あるのは、私の突然の「反逆」に対する不快感と、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか」という不満だけだった。

「うん。これでいい。もう決めたから」私はキッチンカウンターに背を預け、努めて穏やかに、けれどこれ以上ないほど明確に答えた。
彼はフッと鼻で笑い、腕を組んだ。その仕草ひとつ、視線の落とし方ひとつに、私を「感情的で話にならない存在」として見下すいつもの癖が染みついている。

「俺はいつだって、お前のことをいちばんに考えてきたつもりだ。仕事が忙しくても、生活に不自由はさせなかったし、お前が『やりたい』と言った趣味だって、反対したことはなかったはずだろ。なのに、何が不満なんだ? 理由が合理的じゃない」合理的。あなたはいつからか、夫婦の営みや感情の機嫌にまで「合理性」を求めるようになっていた。
「不満があるなら、その都度『素直に』言えばよかったじゃん」その言葉が、私の胸の奥に溜まっていた過去の記憶を一気に呼び覚ます。

素直に言う。私は何度もそうしようとした。
「最近、二人の会話が減って寂しい」と言えば、「家くらい静かに過ごさせてくれ」と論破された。
「その言い方は傷つく」と伝えれば、「お前の被害妄想が過ぎるよ」と諭された。彼が言う「素直さ」とは、彼のルールという名の檻の中で、機嫌よく、扱いやすいペットのように振る舞うことと同じだった。

私があなたの用意した正論から一歩でも外れた本音を漏らせば、それはすべて「わがまま」や「ヒステリー」として処理された。私はいつからか、彼と衝突することを避け、自分の言葉を飲み込むようになった。彼の顔色を伺い、彼が喜びそうなセリフを選び、彼の意見にただ頷く。そうして作られた「物分かりのいい、従順な妻」の仮面を、彼は「素直で可愛い妻」だと誤認し、満足していた。

私たちは10年間、一度も本当の意味での対話なんてしたことがなかった。愛していなかったわけじゃない。むしろ、自分の存在すべてを賭けるようにしてあなたを愛していた。
でも、ガランとしたリビングであなたの冷淡な横顔を見つめているうちに、すとんと腑に落ちるものがあった。私がしがみつき、愛し続けていたのは、目の前にいる「現在のあなた」ではなかった。それは、記憶の底で優しく揺れている、もうどこにも存在しない幻影だった。
私が本当に好きだったのは、あの頃のあなただ。10年前、私たちは文字通り何も持っていなかった。
狭くて古いアパート。夏は蒸し風呂のように暑く、冬は隙間風で手足が凍えるような部屋で、私たちは小さなこたつを囲んでいた。私の作った、少し味の薄い肉じゃがを「美味しい、美味しい」と、大きな口を開けて白い歯を見せて笑ってくれた、あの頃の彼。
「いつか広い家に住もうな。でも、この狭い部屋で一緒にいるのも、俺は好きだけど」そう言って、私の頭を不器用になでてくれたときの体温。私の他愛のない話を「うん、うん」と何時間でも楽しそうに聞いてくれた、あの頃の彼。
あの頃の彼は、私の言葉をジャッジしなかった。私の感情を「合理的か否か」で裁いたりはしなかった。ただ、私という存在をそのまま受け入れ、愛してくれていた。

いつから、私たちは変わってしまったのだろう。あなたが仕事で大きなプロジェクトを任され、昇進し、手にするステータスや収入が増えていくにつれて、比例するようにしてあの笑顔は消えていった。家に帰ってきたあなたの顔には、常に険しい「戦闘モード」の皺が刻まれるようになった。社会的な責任とプレッシャーがあなたの心の余裕を削り取っていくのを隣で見ていたから、最初は健気に支えようと思った。彼を癒せる場所を作ろう、と。

だけど、あなたは外でのストレスや支配欲を家庭に持ち込み、私をコントロールすることで発散するようになっていった。
「お前のために言っているんだ。世間というものはだな」
「そんな効率の悪いやり方、よく続けていられるな」いつしかあなたの口調はアドバイスの形を借りた「指示」へと変わり、私の生活態度、趣味、果ては友人関係にまで、あなたの「正しい基準」が適用されるようになった。
私が好きだった、あの優しくて太陽のように笑っていた彼は、いつの間にかあなたの成功とプライドの影に隠れ、息絶えてしまった。
「幻を見ていたのは、お前も同じだろ?」その声には、冷ややかな確信が満ちていた。
「お前は、俺が稼いでくる金や、安定した生活っていう『結果』を、心の中では昔の貧乏だった頃の気持ちに浸っていただろ?」胸がキリキリと痛む。相手の痛いところを正確に突いて、自分の優位性を保とうとするロジック。本当に、いつも通りだった。
「そうかもしれないね」否定するエネルギーすら、今の私には残っていなかった。
「確かに、私は過去に囚われていた。私が弱いからだよ。でもね、変わったのはあなただけじゃない。私も変わったの」
「どう変わったんだよ」
「あなたの顔色を伺って、、自分を殺すことに耐えられなくなって、、これ以上ここにいたら、私という人間が消えてしまいそうだから」あなたは不快そうに視線を逸らし、ふんと鼻を鳴らした。私の感情の揺らぎや言葉にできないモヤモヤは、あなたの世界では「存在しないもの」あるいは「修正すべきバグ」でしかなかったのだ。
あなたが愛していたのもまた、私という生身の人間ではなかった。あなたの完璧なキャリア、完璧な住まい、それに付随する「若くて、大人しくて、自分の言うことをよく聞く、世間体の良い妻」。その型にはまる私だけを、あなたは愛していた。

さようなら。静かにドアを閉める。ガチャン、という金属音がピリオドを打った。見上げた空は、驚くほど高い。

新しく借りたアパートは、窓を開ければ隣のビルの壁が迫り、朝のわずかな時間しか光が入らない。それでも、誰の気配にも怯えずにコーヒーを淹れ、ただ時間が過ぎていくのを眺める生活は、強張っていた心をゆっくり解きほぐしていった。
引っ越して最初の数ヶ月は、怒りと情けなさで夜も眠れなかった。静まり返った部屋で横になると、耳の奥であなたの声が響く気がした。
「お前のために言っているんだ」「もっと素直になれよ」10年という時間をドブに捨ててしまったような悔しさに、胸が潰されそうになった。
でも、ベランダのハーブが小さな芽を出した頃、ふと気付いたことがある。私はずっと、「あなたのために」自分を殺しているつもりだった。夜中にあなたが帰ってくれば気配を消し、味付けをあなた好みに変え、友人との連絡も絶った。

「お前のために言っているんだ」というあの言葉。あなたは本気で、それが正しく、私を守るためのものだと信じていたはずだ。

だけど、あなたが私の角を丸く削ろうとすればするほど、私は怯えて殻に閉じこもった。そして、暗い顔で黙り込む私を見て、あなたもまた「これだけやってやっているのに」と苛立ちを募らせていった。

募りに募った結果がこれだった。
私は本当に自分に素直でいてと呪いをかけることにした。これは、私が私らしくいられるための明るい呪い。

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