「何でも話して」と言う人に、話せなかったこと
以前、何でも相談してほしいと言ってくれる人と働いたことがある。
困ったことがあれば、遠慮なく伝えてほしい。
小さな違和感でも、早めに共有してほしい。
失敗を隠すより、すぐに話してくれたほうがありがたい。
その人は、何度もそう話していた。
言葉だけを聞けば、安心して頼れる人だった。
私も最初は、何かあれば相談しようと思っていた。
けれど、実際に小さな失敗を報告したとき、その人は短く息を吐いた。
「どうして先に確認しなかったの」
声を荒らげたわけではない。
そのあとには、これからどう直すかも一緒に考えてくれた。
それでも、最初のため息と、わずかに曇った表情が残った。
次に問題が起きたとき、私は報告する前に、できるだけ自分で解決しようとした。
相談してよいと言われていた。
隠すつもりもなかった。
ただ、話したときに相手がどんな顔をするかを、身体のほうが覚えていた。
人から自分を理解してもらえるかどうかは、普段の行いに表れる。
そんな言葉に触れたとき、私はあの人のことだけではなく、自分のことを思い出した。
私も、人には率直に話してほしいと思っている。
気を遣わず、本音を聞かせてほしい。
そう言うこともある。
けれど、耳の痛いことを言われると、すぐに説明を始める。
誤解されていると思えば、自分の事情をわかってもらおうとする。
相手が勇気を出して差し出した言葉より、自分が悪い人に見えないことを守ろうとしてしまう。
口では「話して」と言いながら、受け取れる言葉を選んでいた。
そして相手は、私が受け取れないものを、少しずつ話さなくなる。
人は、誰かを一度の立派な言葉だけで見ているわけではないのだと思う。
返事を待つときの表情。
予定が崩れたときの声。
自分より立場の弱い人への接し方。
誰も見ていない場所で、どこまで約束を守るか。
そうした小さな場面が積み重なり、その人の言葉を受け取ってよいかどうかを、静かに決めていく。
以前、ある知人が、部下との距離について悩んでいた。
自分はできるだけ公平に接している。
質問にも答えている。
困っていそうなら、こちらから声をかけている。
それなのに、大事なことほど後から知らされるという。
彼は、部下に主体性がないのだと思っていた。
もっと早く相談すればよいのに。
何度伝えても、なぜできないのだろう。
ある日、部下の一人から、「相談すると、まず自分の判断の甘さを説明しなければならない感じがする」と言われた。
知人には、そのつもりはなかった。
原因を明らかにしなければ、同じことを繰り返す。
相手の成長のために、どこで判断を誤ったのかを一緒に見ていた。
けれど、相談する側にとっては、助けを求めるたびに、自分の未熟さを差し出す時間になっていた。
知人は、すぐには納得できなかったという。
責めているわけではない。
丁寧に話してきた。
感情的にならないようにも気をつけている。
そう反論したくなった。
けれど後になって、部下が相談を終えたあと、どんな顔で席へ戻っていたかを考えた。
自分の意図ではなく、相手の中に残っていた感触を、初めて想像したという。
何を伝えたかったかと、相手が何を受け取ったか。
その間には距離がある。
私たちは、自分の意図によって自分を理解する。
相手は、実際に触れた言葉や態度によって、こちらを知る。
私は親切にしたかった。
相手を育てたかった。
正直でいたかった。
その思いが本物でも、いつも相手に同じ形で届くとは限らない。
だからといって、相手の受け取り方だけが正しいとも言い切れない。
こちらの表情に、過去に出会った誰かを重ねられることもある。
言っていない意味を、受け取られることもある。
自分がどんな人間かは、他人の感想だけでは決まらない。
それでも、似たような距離が何度も生まれるなら、そこには自分から流れ出ている何かがあるのかもしれない。
知人はその後、急に聞き上手になったわけではない。
相談を受けると、以前と同じように原因を確かめたくなった。
言い訳に聞こえる言葉には、苛立つこともあった。
ただ、部下から話を聞いたとき、最後に「もっと早く相談して」と言うのをやめた。
代わりに、自分のどんな反応が話しにくくさせていたのかを尋ねたことがあるという。
返ってきた言葉の中には、受け入れにくいものもあった。
それでも、部下が話しに来る回数は少しずつ増えた。
知人の評判が変わったのかはわからない。
本人も、自分が信頼される人になったとは言わなかった。
ただ、信頼とは、こう見られたいと思う自分の姿ではなく、相手との間に残っていくものなのだと話していた。
私も今なお、よい人に見られたい。
理解のある人。
誠実な人。
安心して話せる人。
そう思われるような言葉を選ぶ。
けれど、用意した言葉より先に、忙しいときの返事や、思いどおりにならないときの顔が、私について語っている。
それを考えると、少し怖くなる。
同時に、自分を飾り続けなくてもよいような気もする。
人格は、立派な自分を完成させることではなく、小さな食い違いに気づくたび、もう一度、自分の内側へ戻ることなのかもしれない。
「何でも話して」と口にする前に、私の普段の姿は、相手へどんな言葉を渡しているのだろう。
