人とうまく関わる前に、戻っていたい場所
打ち合わせを終えたあと、会議室の椅子に座ったまま、しばらく動けないことがあった。
話し合いは穏やかだった。
声を荒らげた人はいない。
こちらも相手の話を遮らずに聞き、できるだけ角の立たない言葉を選んだ。いくつかの提案を持ち帰ることになり、表面だけを見れば、きれいに終わったはずだった。
それなのに、胸の奥に薄い紙のようなものが貼りついていた。
何かを言い忘れたというより、自分をどこかに置き忘れてきたような感覚だった。
相手の事情を理解しようとするほど、自分が本当は何を感じていたのかが遠くなる。
関係を壊さないように言葉を整えるほど、話している自分の輪郭がぼやけていく。
人とうまく関わるための言葉は、たくさん知っていたはずなのに。
人間関係について書かれた短い文章を読んだとき、私は「人格の土台」という言葉に引っかかった。
少し硬く、重たい響きがある。
立派な人にならなければ、誰かとよい関係を築けない、と言われているようにも聞こえる。
けれど、何度か読み返すうちに、別の受け取り方が残った。
ここでいう土台とは、欠点のない人格でも、揺るがない強さでもなく、自分の内側で起きていることを、なかったことにしない姿勢なのかもしれない。
嫌だったのなら、まず嫌だったと気づく。
怖かったのなら、うまく説明できなくても、その怖さを自分のそばに置いておく。
相手に伝えるかどうかは、そのあとでいい。
言葉にする必要さえないこともある。
ただ、自分だけはその感覚から目をそらさない。
それは思っていたより、静かな営みだった。
以前の私は、相手を尊重することと、自分を後ろに下げることを、ほとんど同じものとして扱っていた。
誰かと意見がぶつかりそうになると、先に譲った。
困っている人を見ると、自分の予定を動かした。
頼まれたことに応えられないと、能力ではなく人間性まで足りないように感じた。
周囲からは、話しやすい人だと思われていたかもしれない。
実際、関係が大きくこじれることは少なかった。
その代わり、ひとりになると疲れていた。
あるとき、知人から相談を受けた。
長く続けてきた仕事を辞めたいけれど、自分が抜けたら周りが困る、と彼女は言った。
彼女は何度も「みんなには感謝している」と繰り返した。
辞めたい気持ちを話しているはずなのに、その言葉の多くは、周囲を傷つけないために使われていた。
私は、気持ちがよくわかった。
だからこそ、簡単に背中を押せなかった。
辞めるか、残るか。
その二つのあいだで彼女が迷っているように見えて、実際にはもっと手前の場所で立ち止まっていたのだと思う。
私は何をつらいと感じているのか。
ここに残ることで、何を失いかけているのか。
誰にも迷惑をかけない答えではなく、自分が自分に嘘をつかずにいられる答えは、どちらに近いのか。
彼女はすぐには決めなかった。
数か月後に会ったときも、まだ同じ職場にいた。
何も変わっていないように見えた。
ただ、以前より少しゆっくり話すようになっていた。
誰かの気持ちを代弁する言葉が減り、「私は」という言葉のあとに、考える沈黙が置かれるようになった。
その沈黙を見て、進むことは、いつも外からわかる形をしているわけではないのだと思った。
人と支え合うことは、ひとりで何でもできるようになってから始まるものではないのだろう。
けれど、自分の足元がわからないまま誰かに寄りかかると、助け合いと我慢の境目が見えにくくなる。
相手を思いやっているつもりで、見捨てられないための言葉を選ぶこともある。
譲り合っているようで、ただ自分の気持ちを引っ込めていることもある。
外から見れば、どちらも穏やかな関係に映る。
違いは、たぶん自分の中にしかない。
あの会議室で動けなかった私は、交渉に失敗したのではなかった。
相手の話を聞けなかったわけでもない。
ただ、相手の声を聞くことに夢中で、自分の中にあった小さな声を、途中から聞いていなかった。
そう考えると、胸に貼りついていたものが、少しだけ剥がれた気がした。
状況は何も変わっていない。
持ち帰った課題も、次の打ち合わせも、そのまま残っている。
それでも、自分を置き忘れた場所がわかると、そこまで戻る道も、ぼんやり見える。
誰かと向き合う前に、自分の中へ戻る時間がある。
そこで見つかるのは、立派な答えではなく、まだ形にならない違和感かもしれない。
けれど、人と人とのあいだに差し出せるものは、案外、そんな未完成な自分からしか生まれないのかもしれない。
いま自分の内側で、まだ誰にも聞かれていない声は、どんな言葉の手前にいるのだろう。
