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“育休明け”って、いつまで有効ですか?


育休から復帰して、半年と少しが過ぎた。

目の前の案件の回し方も、不在の間に様変わりした社内システムの操作も、一通りは把握したつもりだ。
周囲からも「もうすっかり元通りだね」「ブランクを感じさせないね」なんて、ありがたい言葉をかけてもらうこともある。

けれど、わたしの内側にある感覚は、その温かな言葉とは少しだけズレている。時計の針は進んでいるのに、足元だけがふわふわとした、泥炭地を歩いているような感覚。

「いつまでが、育休明けって言えるんだろう」
そんな問いが、最近ずっと頭の隅に居座っている。

たとえば、定例会議の席でのこと。
新製品のプロモーション案について議論が白熱する中、聞いたことのない専門用語や、わたしが休んでいる間にすっかり定着したらしい「現場の暗黙の了解」がポンポンと飛び交う。

その瞬間、わたしの思考は1秒だけフリーズする。
「え、それって……」と聞き返そうとして、喉の奥でその言葉を飲み込む。
「まだ戻ってそんなに経ってないし、今さら話の腰を折るのもな」
そんな、妙に卑屈な遠慮が顔を出すのだ。
かつての自分なら、もっと図々しく食らいついていたはずなのに。
ずっと現場にいた人たちの熱量に対して、自分だけが薄い膜一枚を隔てて参加しているような、得体の知れない気後れがそこにはある。

そして、16時。
議論が一番盛り上がり、ホワイトボードが書き込みで埋め尽くされる頃、わたしは一人、静かにパソコンを閉じる準備を始める。

「お先に失礼します」

その一言が、どうしても鉛のように重い。

誰に責められているわけでもないし、むしろ「早く帰りなよ!」と送り出してくれる理解ある職場だ。
それでも、背中に無数の視線を感じるような気がして(実際はみんな画面に夢中なだけなのだけれど)、逃げるように早足でオフィスをあとにする。

時短勤務という、物理的なタイムリミット。
フルタイムで走り続ける彼らと同じ地平に立つことは、今のわたしには不可能なのだと、夕闇が迫る道すがら思い知らされる。

これは”謙虚さ”だろうか。
それとも、単なる”自信のなさ”だろうか。
あるいは、無意識に自分を守ろうとする”甘え”なのだろうか。

「まだ半年だし、分からなくても仕方ない」

その言葉は、自分を労わる特効薬であると同時に、自らをプロフェッショナルから遠ざける呪文のようにも感じる。

「育休明け」という免罪符をいつまでも握りしめていたい自分と、そんな自分に嫌気がさして、早くかつての「バリバリ働いていた(気がする)自分」に追いつきたい自分。

その両方が、心の中で綱引きをしている。
10年もこの業界にいて、それなりに経験も積んできたはずなのに。

システムは数週間で覚えられても、心にこびりついた「ブランク」という名の違和感は、なかなかアップデートしてくれない。

「育休明け」を潔く終わらせて、今の制約の中で新しい価値を出す。
それが正解なのは、百も承知だ。
けれど、今はまだ、そこまで綺麗に割り切ることはできない。
正直に言うと、今以上仕事にのめり込むには気力も体力も足りない。

自信と余裕がいつ手に入るのか、その答えもまだ見つからない。
もしかしたら、時短勤務を続けている限り、この「ずっと勤続している人」との微かな距離感は埋まらないのかもしれない。

でも、それでいいのかも、とも思う。
気後れするのも、自信がないのも、それだけ今の仕事に対して誠実でありたいと願っている証拠なのだと、自分に言い聞かせてみる。
無理に「完全復活」を演じて、息切れしてしまうよりはいい。
人生の中で、「細く長く」という働き方を選んだ時間があっても、それはそれで間違いではない、と思いたい。


だから、今はまだ、この名前のつかないモヤモヤとした場所に留まっていてもいいことにした。

「育休明け」という心地良いような心地悪いような言い訳をポケットに忍ばせたままで、明日もまた16時までの戦場へ、少しだけ背筋を伸ばして向かおうと思う。

いつか、このモヤモヤさえも「そんな時期もあったね」と笑える日が来るまで。


「育休明け」「時短勤務」…そんな言葉に縛られていたわたしが、
罪悪感を少し減らせた考え方を、別記事でまとめています。
おなじように、しんどい思いをしている人に届きますように。

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