ー零の羽多野ー 第五話「零」
※本作はフィクションです。
登場する人物・出来事・場所はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。
第一章 知っていたか
接見室の時計は、午後八時十七分で止まっているように見えた。
秒針は動いていた。
耳を澄ませば、透明な仕切り板の向こう側から、かすかな刻みまで聞こえる。
それでも時間が進んでいる感じがしなかった。
羽多野勇は椅子へ腰を下ろし、膝の上に黒い鞄を置いた。
机の中央を、厚い透明板が横切っている。人間の声は通すが、体温は通さない。触れようと思えば触れられそうな距離を、制度が明確に二つへ割っていた。
扉が開いた。
霧島澪が入ってきた。
黒い服ではなかった。
薄い灰色のスウェットに、紺色のジャージ。化粧はない。耳元にも首にも何もない。四十五歳という数字が、初めて衣服の外へ出ているように見えた。
けれど、歩き方だけは変わっていなかった。
誰かに連れてこられた人間の歩き方ではない。
自分が座る場所を自分で決める女の歩き方だった。
霧島は椅子へ座り、羽多野を見る。
数秒。
先に口を開いたのは霧島だった。
「来たのね」
「事件を見に来ました」
「私じゃなくて?」
「はい」
霧島の口元がほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
「そういうところ、本当に変わらない」
羽多野は鞄から薄いファイルを出した。
逮捕容疑について、現時点で外から確認できる範囲の資料しか入っていない。
組織的犯罪処罰法違反。
犯罪収益等隠匿。
対象額、八千四百万円。
青嶺マネジメント株式会社。
送金先、三法人。
逮捕時に報じられた情報は、それだけだった。
「私を弁護して」

霧島が言った。
羽多野はファイルを開かない。
「資料を見てから決めます」
「普通、昔の女が逮捕されたら、もう少し違う反応するものじゃない?」
「普通を相談したいなら、別の人を呼んでください」
霧島は今度こそ笑った。
短い。
笑ったあと、その顔からすぐに何かが消えた。
「八千四百万」
羽多野が言った。
「はい」
「青嶺マネジメントに入った金ですか」
「そう」
「その日のうちに三社へ出した」
「そう」
「あなたの指示で」
「そう」
羽多野は初めてファイルを開いた。
「犯罪収益だと知っていましたか」
霧島は彼を見る。
さっきまでの薄い笑みはない。
「知らなかった」
「疑ってもいなかった?」
間があった。
羽多野はその間を埋めなかった。
霧島は透明板の端へ視線を落とした。
「綺麗な金だと信じていた、とは言わない」
「どういう意味ですか」
「青嶺へ入ってくる金よ。投資会社からの精算金。契約を解いて戻ってきた、と聞いてた」
「その説明を信じた?」
「信じる必要があった?」
「質問しているのは私です」
「知ってたわ」
羽多野の目がわずかに細くなる。
霧島は続けた。
「あなたがそう言うの」
「何をです」
「質問してるのは私です、って」
羽多野は返さなかった。
霧島は椅子の背に軽くもたれた。
「信じたわけじゃない。疑う理由もなかっただけ」
「さっきは、綺麗な金だと信じていたとは言わない、と言った」
「綺麗か汚いかで金を見たことがないから」
「では、何で見る」
「入る理由と、出る理由」
羽多野は一秒だけ黙った。
「入る理由は」
「契約解約精算金」
「出る理由は」
「支払」
「三社へ?」
「そう」
「三千万。三千万。二千四百万」
「そう」
「偶然八千四百万になる」
「偶然じゃない」
霧島は即答した。
「入ってきた八千四百万を使ったから」
「それを、一般には資金移動と言います」
「一般にはね」
「捜査機関は隠匿と言っている」
「だからあなたを呼んだの」
「私は言葉を変える仕事ではありません」
霧島の目が細くなった。
「知ってる」
羽多野はファイルを閉じた。
「接見記録を取ります。今後、事件に関する話は推測を混ぜないでください」
「私が?」
「あなたが」
「勇に?」
「弁護人になるかもしれない人間にです」
「まだならないの?」
「資料を見てからです」
「冷たい」
「知っています」
霧島が息を漏らす。
羽多野は立たなかった。
「一つだけ」
「何?」
「第四件まで」
霧島の目が変わった。
「榊原岳。真壁重臣。郡司拓真。志筑修司」
羽多野は一人ずつ名前を置いた。
「あなたが私へ回した」
霧島は答えなかった。
「偶然ではない」
「それを聞きに来たの?」
「事件を見に来たと言いました」
「じゃあ、事件だけ見れば」
「あなたが依頼人になるなら、利益相反と受任判断に関わる」
霧島の視線が、羽多野の顔の上で止まる。
「本当に面倒な男」
「答えてください」
沈黙が長くなった。
接見室の時計だけが動いていた。
「紹介しただけ」
「誰に何を頼んだ」
「何も」
「四人に犯罪をさせた?」
「いいえ」
「証拠を作った?」
「いいえ」
「捜査機関へ流した?」
「少なくとも、あなたが扱った事件についてはしていない」
「少なくとも?」
「言葉尻を取らないで」
「仕事です」
霧島は透明板の向こうで手を組んだ。
「あなたなら見つけると思ってた」
「何を」
「その人が抱えているもの」
「だから名前を置いた」
「そう」
「なぜ四人だった」
霧島はすぐには答えなかった。
羽多野は待った。
霧島が口を開く。
「榊原は、自分で決めたことを止められなくなってた」
羽多野は何も書かない。
「真壁は、金を隠すことが仕事になってた」
続ける。
「郡司は、人を見つけることに限界がなくなった」
「志筑は」
霧島の声が少しだけ低くなった。
「自分の国を作り始めた」
羽多野の眉が動いた。
霧島は気づいていた。
「黒零会の中で?」
「ここから先は、事件と関係ある?」
「今はありません」
「なら話さない」
羽多野は否定しなかった。
霧島が言った。
「罪を作ったわけじゃない」
「分かっています」
「あったものを、あなたの前へ置いた」
「その結果、あなたに都合の悪い人間が減った」
「そういう見方もできる」
「あなたはそういう見方をしていた」
「していた時もある」
「志筑の時は?」
「した」
初めて、霧島は逸らさなかった。
「志筑さんが弱れば、私は楽になると思ってた」
「だから私へ」
「紹介した」
「結果を予想していた」
「あなたが本気で弁護することも含めてね」
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