相手が雪女でも、皆さんは受け入れられますか?
“ありのまま”で生きていていい社会って、本当にあるの?
「ありのままの姿見せるのよ〜」
──誰もが一度は耳にしたことのあるこのフレーズ。映画『アナと雪の女王』の主題歌です。
女王は、触れることで周囲を凍らせてしまう力を持っています。
ある意味では、“現代版の雪女”のような存在かもしれません。
でも、現実の社会で“雪女”のような人と出会ったとき、
私たちは本当に「そのままでいいよ」と言えるでしょうか?
今、社会では「ありのまま」や「多様性」といった言葉が盛んにうたわれています。
でも、私はいつも引っかかってしまいます。
本当に、“ありのまま”で生きていていい社会なんだろうか?
もし、相手が「雪女」だったとしたら?
つまり、関わることでこちらが凍えてしまうような存在だったら?
それでも「そのままでいいよ」って、言えるのでしょうか。
最近、『働くということ 「能力主義」を超えて』という本を読みました。
そこには、「できる/できない」という線引きではなく、存在そのものに意味があるという視点がありました。
本の中で紹介されていたたとえに、私はとても納得しました。
人はみんな、それぞれ違う形をしたレゴブロックのようなものだ、と。
凸と凹があり、違う形だからこそ、つながることができる。
もし同じ形のブロックばかりだったら、かみ合わないし、何も組み上がらない。
たとえば、船を作りたいと思っても、パーツがすべて同じでは、どう頑張っても船にはならないでしょう。
目立つ人も、地味な人も。
いろんな形があるからこそ、社会という「船」は組み上がっていく。
そんなふうに感じました。
けれど、読み進めるうちに、どうしても浮かんでくる疑問もありました。
──では、もしも低スペック同士のパーツしかなかったら?
互いを補い合うどころか、組み上がる前に崩れてしまうかもしれない。
逆に、高スペック同士であれば、たとえ一部に弱点があっても、支え合いながらもっと確かな形を作れるのではないか?
違いがあることはたしかに大切だけれど、
現実には「土台となる強さ」もまた、無視できない。
そんな矛盾を、私は心の中で行き来しています。
みんな、「評価されたい」「感謝されたい」「大事にされたい」
「興味を持たれたい」「ケアされたい」。
つまり、“選ばれたい”。
そして、選ばれたいからこそ、選ばれない人に、社会はときに冷たくなる。
人が選び、選ばれる時代。
選ばれなかった者には、
**「それはあなたの自己責任だ」**と、冷たく言い渡される時代。
その背景には、
**「能力による区別と分配」**という、静かだけれど確かなルールが横たわっている。
できるか、できないか。
それが、すべてを決める。
私たちは、
「出来が悪いなら仕方ない」「自分がちゃんとやっていれば」
そんな言葉が、何の疑いもなく受け入れられる社会に生きている。
そして、それを「正当な競争の結果」として飲み込み、
誰もが無言で納得させられている。
国民は、「能力獲得」にいそしむことを求められる。
「もっとできるようになれ」
「もっと役に立つ存在になれ」
そうして、社会にとって都合のいいパーツになれと、静かに急かされ続けている。
──それができなければ、存在する意味すらない。
そんな空気が、どこかで私たちを締めつけている。
今、社会の基準はどんどん変わってきています。
データドリブン
エビデンスベースド
生産性
客観的評価
コスパ
タイパ
──あらゆるものが、数字と効率で測られる時代。
どれだけ速く、どれだけ安く、どれだけ無駄なく。
人もまた、そんな尺度で選別されていく。
ただ、普通に生活したい。
ただ、そこにいたい。
それすらも許されない社会。
**「成長しないと意味がない」**──
そんな圧に、私たちは気づかないうちに追い詰められているのかもしれません。
だからこそ、私は問いかけたいのです。
相手が“雪女”だったとしても、皆さんは受け入れられますか?
私は、まだこの問いの前で、立ち止まっています。
──聞くだけで、凍りそうなこの世界で。
(追記)
「ありのままで生きていい」と言われることは、優しいようで、少し怖さもあります。
なぜなら、“ありのまま”を見せることで、嫌われることもあるからです。
それでも本当に、「そのままでいていい社会」はあるのか?
そう考えたとき、私はこう思いました。
ありのままを見せる自由と、
嫌われても共に存在し続けられる関係性。
その両方があることが、本当の意味での“多様性”なのかもしれません。
※参考文献
『働くということ 「能力主義」を超えて』
勅使河原真衣(亜紀書房)
#働くということ
#能力主義を考える
#自己責任社会
#ありのままとは
#受け入れるということ
#生きづらさを抱えて
#社会への違和感
#読んでほしいnote
