文芸批評のメチエ(6)力学の記述について
Ⅰ
連載評論「感想」(ベルクソン論)をはじめ、物理学について小林秀雄は随所で言及しているが、その洞察は驚くほどに予見的である。たとえば次のような箇所は、現代物理学がいずれ再び取り戻さねばならないであろう古典力学の本質を見事に言い当てている。
わかり切った事のようでいて、案外注意されていないように思われるのだが、近代の自然科学の大成功はその仕事から、先ず歴史という考えを、さっぱり取除いたところに基いていた。
ニュートンが考えていた自然のシステムとは、言わば、時間は、システムの外側を流れ、その内部に立入りを禁止されている、本質的に何んの変化も起らぬ惰性系であった。 (「歴史」1963年)
「わかり切った事」とは、運動の第二法則(運動方程式)が惰性系=慣性系においてしかそのままの形では成り立たない事実を指しているが、「歴史」を取り除かれているのは「自然のシステム」ばかりではない。ニュートンを受け継いだ力学的世界像それ自体にこそ、「歴史」あるいは理論という歴史的偶然性への驚きが欠落している。もちろん、『プリンキピア』を少しひもといてみれば明らかなように、ニュートン自身の意図するところはそこにはなかった。
Ⅱ
ニュートン力学の歴史的偶然性を最も先鋭に前景化させたのは、言うまでもなくエルンスト・マッハの主著『歴史的批判的に論述された力学』(=『力学史』、1883年初版)である。「力学的自然観は、歴史的に理解され許される仮説であって、おそらくは一時的には有用であるが、しかし全体としてはやはり技巧的な仮説であるように思われる」とマッハは書いた(第五章第一節、岩野秀明・訳)。力学を物理学の他領域にとっての基礎と見做す必然性はない、との裁定は、アインシュタインを含め後発する理論家たちに少なからぬ示唆をもたらしたとされる。
マッハの考える歴史的偶然性の様相を知るには、力学の記述についてその生成のプロセスを詳述した第四章「力学の形式的発展」に拠るのが最も適切だろう。「科学の経済」と題されたその第四節冒頭には、『力学史』全体の核心的なテーゼと言ってもよい著名な一文が据えられている。
全ての科学は、事実を思想の中に模写し範型を示すことによって経験を代理する、あるいは経験を節約しなければならない。
「範型を示す<Vorbilden>」とは具体的にはどのような手続きか。この箇所について伏見譲は岩野訳に先立って、「あらゆる科学は、事実を思考の中に模写し予写することによって、経験と置きかわる、つまり経験を節約するという使命をもつ」との邦訳を提示していた。「予写」という訳語にかんして伏見は、「訳者註」に「『感覚の分析』の訳語に従い『予写する』と訳す」と簡潔に記しているだけだが、『認識の分析』(廣松渉・加藤尚武編訳)においても「予写」に統一して訳出されており、後者の「訳註」には「模写<Nachbilden>と対比して、予め思い描いておくことの意味でこの語を用いる」と明かされている。
前置詞<Nach->は「空間的・時間的後続/模倣・類似」に方向性の焦点が置かれ、同じく<Vor->には「~の前に/~に優先して」とのイメージが込められている。伏見訳は「対をなす」側面を際立たせたいため逐語性への傾斜が強く、他方、岩野訳ではマッハの言う「思考の経済」を意識し、記述に必要なフレームを定めてから記号化を開始するといったニュアンスがより重視されていると言える。
だが、「模写」を構成するであろう経験や定式化が起動する前提としてまず「予写」が行われる、といった段階的な描像はこの場合、おそらくマッハの意図を正確には反映していない。「模写」というメカニズムの明確化にこそ、『力学史』の一貫した目的があったからだ。むしろ、「模写」が実践されながら同時に「予写」もまた逐次的に進行していく、あるいは世界=観測(現象)=理論(記述)が「ボロメオの環」のように一つのパッケージとなって力学が形作られていく、その時間性のもたらす歴史的偶然性をマッハはどうにかして可視化させようとしたと考えるのが実情に近い。「決して事実全体を模写するのではない。われわれにとって重要な側面に関してのみそうするのである」という「節約」の先験的な役割を<Vorbilden>に求めることはできない。
世界=観測(現象)=理論(記述)という「模写」の構制をどれほど精密化していったとしても、それは観測(現象)と理論(記述)とを慣習的に分割したうえで、その組み合わせに微視的な整合性を追求していく作業の連鎖に過ぎない。ここに「パラダイム相対主義」(加藤尚武)が入り込んできてしまう余地が生まれる。無論、そうした経済性は「思考の経済」とは一切かかわりがない。力学が世界の基礎でも一部でもなく、その「一面」をとらえるのだと書くとき、マッハは力学形式の(空間的な)相対性のみならず、(時間的な)一意性の始原にも迫っていたと言わねばならない。
あるいは、「模写」が意味と形式それぞれの諸要素を所与の前提としつつ、それらを連関づける相互規定の「条件法的な歴史性」を解こうとするのに対し、「予写」は力学の記述体系という作品それ自体への「接続法的な歴史性」に触れようとしているのだと言い換えてもよい。意味と形式との「セット」を結果として記述に定着させていく、「原-模写」とでも言うべき不透過な「力」こそが「予写」なのだ。
Ⅲ
ヴィトゲンシュタインによれば、力学に基づく世界の記述は常に一般的であり、特定の質点が話題とされることはない(『論理哲学論考』6.3432)。しかしながら、そのような一般的事実(=なんらかの質点)を対象とする力学の形式には、形式自体の一回性をとらえ得る契機が常に組み込まれていなければならない。世界の内側で「起きるようにして起きる」出来事はどれも偶然の一回的な事実だからである。彼はこう述べている。
ニュートン力学によって世界を記述することができるということは、世界についてなにも述べていない。しかしながら、ニュートン力学によって、世界をまさにあるがままに記述することができるということは、世界についてなにかを述べている。 (6.342 丘沢静也・訳)
ここで「世界についてなにかを述べている」とされる「なにか」とは、どのような性質の事柄だろうか。
ヴィトゲンシュタインは「網の目」による不規則な絵柄のスキャンとして世界の記述をとらえている。白い平面に描かれたいくつかの黒いしみを三角形や六角形の網の目で点描し、絵柄にふさわしい特定の細かさを持つ特定の網によって「完全に」記述できるとき、そのことが絵柄の「性格」になっている、というのである。
しかしこの完全性をたんに網の目(理論)の性質と考えるとすれば、事態の半面しか見ないことになるだろう。また、実際には同じことなのだが、絵柄(世界)についての性格とされる「なにか」について、絵柄(世界)に固有の属性と考えることもできない。そうした理解はこの断章を「数学化」の水準にまで引き寄せて読み込んでしまっている。けれども『論考』がここで捉えようとしているのは、絵柄と網の目との関係性にかかわる「数学化」ではなく、あくまでも「数学化」を基礎づけている認識論的な飛躍としての「形式化」なのだ。これまでにも幾度か引証してきた『論考』4.12の用語法に従うなら、「なにか」とは網の目と絵柄とが「セット」として共有すべきものとしての「論理形式」にパラフレーズすることができるだろう。もちろん、「論理形式」を網の目ですくい取って示してみせることなど決してできない。
かつて二葉亭四迷は自らの初訳を回顧し、原作の「文調」との照応を期すため、たとえばツルゲーネフならば「晩春の相」といった「詩想」をしっかりと体得したうえで、その「詩形」をも保つよう意を尽くしたのだと述べている(「余が翻訳の標準」1906年)。バイロンを「立派なロシア文」に移しかえたジュコーフスキーのように、原詩を崩してでもその詩想に新しい詩形を与える筆力が自分にはない。一方、語数やコンマ、ピリオドの位置・個数に到るまで厳密に反映させた初期の訳文は読みづらく、出来栄えが悪かった、と。
だが二葉亭自身がよく心得ていたように、細部にも及ぶ原作との形態上の等価性=逐語性や、一見それとは逆立する「詩想」の忠実な再現はともに、国語から国語への転回という全的なプロセスの言わば最終的な成果にほかならない。「文調」とは詩想と詩形との融合などではなく、「完全な」翻訳によって初めて浮かび上がってくる国語の「なにか」=「論理形式」なのだ。
再びヴィトゲンシュタインの文脈に立ち戻って言うならば、意訳(詩想)もしくは逐語性(詩形)とは各々が三角形や六角形といった無作為の「網の目」によるスキャンに相当し、国語と国語とのあいだにその都度、相互規定的な力を要請する。そのような相互規定的な「方法論的媒介物」(マックス・ヤンマー『力の概念』)ではない、一回的な原作の「文調」を結果として再現させている「力」=「予写」への道筋こそが「形式化」なのであって、二葉亭はここに、「完全な」翻訳への「標準」を正しく見いだしていたと考えてよいだろう。
■文献
小林秀雄『考えるヒント2』(文春文庫、1975年)
マッハ『力学の批判的発展史』伏見譲・訳(講談社、1969年)
マッハ『力学史・古典力学の発展と批判』岩野秀明・訳(公論社、1976年)
ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』丘沢静也・訳(光文社古典新訳文庫、2014年)
『身につく独和・和独辞典』伊藤眞・監修(三省堂、2013年)
二葉亭四迷『平凡・私は懐疑派だ』(講談社文芸文庫、1997年)
※『歴史的批判的に論述された力学』は伏見訳と岩野訳とでタイトルが異なっているが、本文中では慣例に従い『力学史』で統一した。訳文はとくに断らないかぎり岩野訳に準拠している。
※次回は「美学」のテキストについて。
2026.7.10
