第1話 パリに行けば幸せになれると思っていた。
50歳の節目に、36歳でパリに来た日から、46歳で刺繍職人になるまでを6話の物語にしました。誰にも話した事のない気持ちも綴っています。
普通の日本人女性が、自分らしい人生を見つけるまでの実話エッセイです。
36歳。
大きなスーツケースを引きながら、私はパリの空港に降り立った。
「いつか外国で暮らしてみたい。」
学生の頃から、何度も心の中で繰り返してきた夢だった。
日本で続けていた事務の仕事を辞め、フランス人の夫と新しい生活を始めるため、この街へやってきた。
石畳を響く靴音。
テラス席でグラスを傾ける人たちの笑い声。古いアパルトマンの窓辺を彩る赤いゼラニウム。
目に映る景色は、ページをめくるたびに憧れを募らせた雑誌の中のパリと、少しも変わらなかった。
ここでなら、きっと幸せになれる。
あの頃の私は、本気でそう信じていた。
けれど、パリで最初に出会ったのは夢ではなかった。
「私は何者なんだろう。」
その問いだった。
フランスに着いて間もなく、大学のフランス語講座へ通い始めた。教室には、世界中から集まった若い学生たちがいた。
十代、二十代の彼らは、新しい言葉を吸い込むように覚えていく。昨日できなかったことが、今日はもうできている。
その変化を、私は少しまぶしく見ていた。
私も毎日机に向かった。文法を覚え、発音を真似し、小さなノートを単語で埋めていく。「 先月より、少しは話せるようになっているはず。」
そう思って教室へ向かうのに、いざ話そうとすると、頭の中は真っ白になった。覚えたはずの単語は、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。
焦るほど言葉は遠ざかり、一日が終わる頃には、ほとんど何も話せないまま教室を出ていた。
帰り道、セーヌ川に架かる橋の上で立ち止まる。夕暮れの水面は静かに光り、観光客は楽しそうに写真を撮っている。
その景色をぼんやり眺めながら、私は何度も同じことを思っていた。
「私は、何をやっているんだろう。」
語学が伸びない理由を、年齢のせいにしていた。そう思ってしまえば、少しだけ気持ちが楽だった。
どこかで、
「夫がいるから、なんとかなる。」
そんな甘えもあった。
だから、
「自分の力で言葉を身につけたい。」
「一人でもこの国で生きていきたい。」
その覚悟が、まだ足りなかったのだと思う。
フランスでは、家族や友人が集まると、何時間も食卓を囲む。私も何度となく、その輪に招かれた。
料理はどれもおいしく、みんな本当によく笑う。けれど、飛び交う言葉はすべてフランス語だった。
誰かが笑えば、一緒に笑う。話しかけられれば、笑顔でうなずく。それだけ。
時計の針が進むのを待つしかない時間は、不思議なくらい長く感じられた。
そして、決まって聞かれる質問があった。
「仕事は何をしているの?」
「これから何がしたいの?」
そのたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
日本では会社員だった。けれど、フランスでは仕事もなく、言葉も話せない。
肩書きがなくなった途端、自分まで空っぽになったような気がした。
「私は何者なんだろう。」
その答えは、まだどこにもなかった。
パリへ行けば幸せになれる。そう信じていた私は、この街でようやく知る。
場所が人生を変えてくれるわけではない。
変わらなければいけなかったのは、私自身だった。
