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第5話 45歳、パリの刺繍学校に行くと決めた日

1話から3話までは、夢を失い、子供のいない人生を受け入れるまでを書いてきました。
第4話からは「これから私は、どう生きていきたいのか」を考え始め、もう一度自分の人生を歩き始めるまでを書いています。


刺繍を始めて、まだ数か月だった。
仕事から帰ると机に向かい、夢中で針を動かす日々が続いていた。
一つ作品ができあがると、引き出しにしまう。
そしてまた、新しい布を広げる。

誰かに見せたいわけでもなかった。
上手になりたいというより、刺繍をしている時間そのものが好きだった。

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ある日、ふと思った。
「せっかくだから、写真だけでも残しておこうかな」当時の私は、Instagramは見るだけのものだった。自分が投稿するなんて考えたこともない。

写真を選んでは閉じる。
文章を書いては消す。

「こんな作品を載せてもいいのかな」

投稿ボタンを押せないまま、何日も過ぎていった。そしてある夜、思い切って一枚の写真を投稿した。投稿してから、しばらくしてスマートフォンが震えた。

「いいね」が一つついていた。

知らない誰かが、私の刺繍を見てくれた。
たったそれだけのことなのに、不思議なくらいうれしかった。それから少しずつ、投稿を続けるようになった。

「素敵ですね」
「色使いが好きです」

画面の向こうに、私と同じように刺繍が好きな人たちがいる。一人で楽しんでいた時間が、少しずつ誰かとつながっていく。
私の世界は、静かに広がり始めていた。

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日本での暮らしは穏やかだった。
働きやすい環境で、同僚にも恵まれ毎日の生活も落ち着いてきた。

それでも、心のどこかで考え続けていたことがある。フランスで暮らす夫のことだった。

コロナ禍で離れて暮らす時間は、思っていたよりずっと長くなっていた。
このまま別々の人生を歩むわけにはいかない。
日本に残るのか。フランスへ戻るのか。
その答えを出す日が、少しずつ近づいていた。

以前の私なら、迷わず夫について行っていただろう。でも、今は違った。

パリへ戻ることは、夫のもとへ帰ることでもある。でも、それだけではなかった。

私自身の人生のために、もう一度パリへ戻りたい。

そう思うようになっていた。それでも、
何を仕事にしたいのかは分からない。

刺繍は大好きだった。
でも、趣味と仕事は違う。好きなことだけで生きていけるほど、現実は甘くない。そんなことばかり考えていた。

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ある週末、ふと図書館へ立ち寄った。
いつものように本棚を眺めながら歩いていた。
ところが、その日は少し違った。

図書館に入ると、なぜか私は迷うことなく、ある本棚へ向かっていた。まるで何かに引っ張られるように、一直線に歩いていた。

そして、ぴたりと足が止まった。
目の前には一冊の本。
気づけば、その本に手を伸ばしていた。
自分でも、少し不思議だった。

本を開く。
ページをめくる。
そして、ある名前を見つけた。

**エコール・ルサージュ。**
パリにある、オートクチュール刺繍のテクニックを学べる学校の事が書いてあった。
ページをめくるたびに、胸が高鳴った。

「私でも行けるのだろうか」

最初に浮かんだのは、そんな不安だった。
でも、心の中ではもう答えが決まっていた。

ここに行くしかない。

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それから、頭と心の小さな綱引きが始まった。
趣味で刺繍を始めたばかりの四十五歳。
そんな私が、本当に学べる場所なのだろうか。

学校のホームページを開いては閉じる。
「やっぱり無理かな」

そう思う日もあった。
それでも、気づけばまた検索していた。

写真を見る。
授業の内容を見る。
必要なものを調べる。

そしてまた、
「私にできるのかな」と考える。

ある日、自分の中から、ふっと言葉が出てきた。
「向いていなかったら、そのとき辞めればいい」「まだ始めてもいないのに、どうして失敗する前提で考えているんだろう」

そのとき、はっとした。
私はずっと、何かを始める前から「できるか、できないか」を考えていた。

でも、本当に大切なのは、
やってみたいかどうか だった。

私は学校の予約フォームを開いた。
必要事項を入力する。
最後に表示された「送信」のボタンを前に、指が止まった。

「本当に送る?」

もう一人の自分が問いかけてくる。
私は小さく息を吸った。
そして、ボタンを押した。

送信完了。

その文字を見た瞬間、胸が高鳴った。
怖かった。でも、それ以上にうれしかった。
自分の手で、新しい扉を開いた気がした。

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それから私は、夫の待つパリへ戻った。
何度も歩いたはずの街だった。
見慣れたカフェも、いつもの道もある。
暮らす場所は同じなのに、以前とは少し違って見えた。

私はもう、誰かの人生について行くためにパリへ戻ってきたのではない。
自分の人生を歩くために、戻ってきた。
そんな気持ちがあった。

そして迎えた、学校初日。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
学校のある建物が見えた瞬間、思わず立ち止まった。

「本当に来てしまった……」

その言葉が、口からこぼれた。
大きな刺繍枠。
見たことのない道具。
クロシェと呼ばれる、小さなかぎ針。

動画を見て予習したはずなのに、思うようには動かない。糸は絡まる。生地に針が引っかかる。焦るほど、手が動かなくなる。

隣を見ると、ほかの生徒は軽やかに針を進めている。先生の手元は、まるで魔法のようだった。

「本当に私にもできるようになるのかな」

何度もそう思った。
気づけば、あっという間に三時間が過ぎていた。学校を出て、駅へ向かう道を歩く。
上手くできなかった。悔しかった。
それなのに、ふと気づくと笑っていた。

もっと知りたい。
もっと上手になりたい。
そんなふうに思えたのは、いつ以来だろう。

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四十五歳。
私はようやく、「好き」を仕事にするための最初の一歩を踏み出した。

でも、このときの私はまだ知らなかった。
この学校で過ごす時間が、私の人生をもう一度、大きく変えていくことを。

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