【038/365】『覚悟の目盛りは、産声の重さ』
日曜日。誰もが安息という名の免罪符を求め、思い思いの時間を消費している。
買い出しに追われる者、あるいは気心の知れた友人とお茶をすする者。近所の井戸端会議の延長線上で、喫茶店の椅子の座り心地に身を任せ、家で留守を守る夫の怠惰を大口を開けて笑い飛ばす婦人たちの姿があった。
人の目など、その領土には微塵も侵入できないらしい。テーブルにこれ見よがしに広げられた荷物と、「我天下なり」と言わんばかりに投げ出された足。その尊大な安堵感を見つめていると、あの婦人たちが遥か昔にどこかへ置いてきてしまった乙女心の行方に、少しだけ同情したくなる。
約束の時間より、わずかに早く店に着いた。
扉を開けた瞬間、満ち引きのない波のようなざわめきが鼓膜を叩く。
(ずいぶんと、混み合っているな)
これから大事な打ち合わせが控えているというのに、この喧騒の中で正気を保てるだろうか。一抹の不安が胸をよぎるが、この駅前に他に気の利いた店など見当たらない。私は諦めとともに、唯一ぽつんと空いていた席へと滑り込んだ。
注文カウンターには、蛇のようにうねる長い列ができていた。
席などもう残されていないはずなのに、この最後尾に並ぶ人々は一体どこへ腰を下ろすつもりなのだろう。そんな余計な詮索をしながら、私は自分の番を待つ。
押し寄せる客を捌くため、若い女性店員が列の間を器用に縫いながら、一人ひとりに注文を聞きに回っていた。
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか」
「アイスコーヒーを」
店員が浮かべた、マニュアル通りの、しかし健気な愛想笑いに対抗するように、私もできるだけ柔和な笑みを返した。
喫茶店における私の選択肢は、常に「コーヒー」の一択である。あれこれとメニューを吟味する労力が、そもそも面倒なのだ。じっとりと汗がにじむような日には、アイスコーヒーこそが至高の、そして唯一の正解となる。これから始まる議論を前に、余計な思考のメモリを消費したくはなかった。
これはレストランに入っても変わらない。私の決断は常に「瞬殺」だ。
メニューを開いた瞬間の、直感。「これだ」と思ったものをそのまま注文する。せっかく外で贅沢な時間を過ごすのだから、自らの直感に嘘はつきたくない。それが、料理を提供してくれる空間に対する、私なりのささやかな礼儀であり流儀だった。
結露したグラスをトレイに乗せ、自席へと戻る。
案の定、隣の乙女心を忘れたご婦人たちの談笑はボリュームを増していた。席を替えようと視線を巡らせたが、奇跡は起きない。現状を受け入れるほかなかった。運命というやつは、いつだって人間の思い通りには動いてくれないものだ。私は小さく苦笑し、乾ききった喉に冷たい黒い液体を流し込んだ。
宿命に身を委ねてから、数分と経たないうちだった。
「お待たせいたしました」
人混みを割るようにして、打ち合わせの相手が私を見つけ、小走りで駆け寄ってきた。
上下を白で統一した清潔感のある装いに、黒い金具がアクセントになった白いリュック。その姿は、この淀んだ空気の店内で、そこだけ光が差し込んだかのように瑞々しかった。
「遠いところからわざわざ、恐縮です」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ、貴重なお時間をいただきありがとうございます」
丁寧な挨拶のやり取りの後、相手は「飲み物を買ってきますね」とカウンターへ走り、やがてアイスカフェラテを手に戻ってきた。
「早速ですが、始めましょうか」
どちらからともなく、机の上に資料が広げられる。
市場分析に始まり、今後の行動計画の策定へ。綿密な数字とロジックが、私たちの間で交わされていく。
(意識の高い人は、やはり話が早い)
内心でそう感嘆しながらも、会話は決して冷淡なものにはならなかった。時折混じる笑い声。それは打ち合わせというより、むしろ旧知の友と未来を語り合うお茶会のような、心地よい熱を帯びていた。有意義、という言葉だけでは零れ落ちてしまうほどの、確かな希望がそこにはあった。
決勝点がすでに決まっているプロジェクトにおいて、一日という時間の重みは等価ではない。「今日、何をするのか」。それを極限まで明確にしながら進まなければ、到底、大きな勝利など掴めやしない。
トップを取ること。精度、課せられた数値を達成すること。
プロジェクトの成否は、その意識の置き所だけで、すべてが決まる。
時には、現実の身の丈に合わない大風呂敷を広げなければ、大魚は釣れない――それが私の持論だった。頭では理解していても、恐怖に足がすくみ、大風呂敷を広げられない人間を私は五万と見てきた。幾度となく勝負の場を踏み、泥にまみれながら修羅場をくぐり抜けることでしか、本当の度胸は身につかない。実践経験だけが、人を育てるのだ。
「ともかく、やってみます」
明るい声での反応に、私の胸に心地よい手応えが響く。
(この人を、勝たせなければならない。そのために、私も全力を尽くそう)
私は胸の奥で、静かに、しかし固く決意した。
結局のところ、最後に人を動かすのは、その人間の「真剣さ」の純度なのだ。
勇気は伝染する。同時に、臆病もまた、静かに伝染していく。
特にプロジェクトの命運は、どこまでいっても「本人」の器次第なのだ。だからこそ、その本人の意識を常に沸点近くまで高め続けることこそが、最優先事項でなければならない。
「自分で自分のすべてを決める」という人生の真理に、一刻も早く気づいた者だけが、時代の先頭を走ることができる。
「数値目標に関してですが、私はこれくらいを設定しています。いかがでしょう」
私は私なりの大風呂敷を広げつつ、しかし確実に狙える数値を提示した。
しかし、返ってきた答えは、私の予想の枠を軽々と飛び越えるものだった。
「私は、○○を目標設定にしています」
澱みのない、力強い声だった。
その数字を聞いた瞬間、私は心の中で静かに、しかし激しく快哉を叫んだ。この人を全力で応援しよう、と。一瞬、無謀とも思えるその数値設定も、本人の魂が燃えているならば必ず達成できる。それは、私自身の過去の経験が証明していた。
「しかし……失礼ですが、その数字は一体どこから導き出されたのですか?」
好奇心を抑えきれず、私は尋ねた。
すると、少しはにかむような微笑みとともに、言葉が返ってきた。
「私の、生まれた時の体重なんです」
――ああ、そうか。“レディ”だから、そこは秘密にしておこう。
私は心の中で苦笑しつつも、「そういう目標設定、私は大好きです」と、妙に深く納得してしまった。ロジックを超えたところにある、その人だけの聖域のような数字。それに勝る原動力など、この世にない。
ふと気がつくと、あれほど明るかった窓の外は、濃紺の夜に包まれていた。隣の席で大口を開けてガハハと笑い、足を投げ出して賑やかにしていた「乙女心を忘れた」ご婦人たちの姿は、いつの間にか消え失せている。席を立ったことすら気づかないほど、私たちは集中していたのだ。
「今日は、この辺りにしておきましょうか」
「はい、本当にありがとうございました」
丁寧な一礼があった。
駅前にある店を出て、改札へと向かう。見送りの道すがら、
「今日は、本当にありがとうございました」
と、再び言葉を重ねて頭を下げてくる。その丁寧な物腰に、背筋が伸びる思いがした。
この世に生を受けてから、人生という名の階段を長く登れば登るほど、人は余計な荷物を背負い込んでしまうものだ。子どもの頃には純粋に、ただ真っすぐに見つめていたはずのものが、大人になるにつれて霞んでいく。目の前に咲く美しい花さえも、いつしか単なる「背景の一部」として処理されてしまう。
無邪気に公園を駆け回っていたあの頃。ふと足を止め、名もなき花をじっと見つめながら、「私もいつか、こんな風に美しく咲く人になりたいな」と、それこそ乙女心に想いを馳せたあの時。そんな大切な記憶の破片すら、私たちは日々の営みの中で忘却の彼方へと置き去りにしてしまう。大人というものは、寂しい生き物なのだろうか。
(生まれた時の体重、か……)
心の中でその言葉を反芻し、私が小さく思い出し笑いを浮かべた、その時だった。
「頑張ります!」
振り返ったその人が、小さな、しかし力強いガッツポーズをしてみせた。
その姿に、あの隣の席のご婦人たちがどこかへ置き忘れてきてしまったはずの、まっすぐで、気高くて、決して妥協を許さない本当の『乙女心』が、今も鮮やかに脈打っているのを見た気がした。
「きっと、美しく咲くさ」
私は心の中でそう語りかけながら、改札の向こう、光る人の波の中へと消えていく背中を見送った。白いリュックの残像が、夜の雑踏に美しく吸い込まれていった。
