1964年、「美しい東京」の精神疾患――ライシャワー事件を、うつ病の私が読む <歴史考察>
1.「美しい東京」は、何を見えなくしたのか
1964年10月。
東京には、世界中から人がやってきた。
新幹線が走り、首都高速道路が延び、競技場には日の丸が揺れた。
戦争に敗れてから、まだ十九年しか経っていなかった。
日本は世界に向かって、自分たちはもう焼け跡の国ではないと示そうとしていた。
その少し前から東京では、「首都美化」が大きな政策になっていた。
きれいな東京。
清潔な東京。
安全な東京。
外国から来た人たちに見せても恥ずかしくない東京。
その言葉は、一見すると何も悪くない。
けれど私は、少し引っかかる。
街を「きれいにする」とき、
いったい何を、きれいではないものとしたのだろう。
当時「浮浪者」と呼ばれた路上生活者たちは、五輪以前から都心部に暮らしていた。オリンピックを前に、野宿生活者や不法占拠者への立ち退き圧力も強まっていった。
道路を掃除する。
ごみを片づける。
川をきれいにする。
そこまでは分かる。
けれど、その延長線上で、
人間まで風景から片づけられてはいなかっただろうか。
私はそんなことを考えてしまう。
2.ライシャワー事件
東京オリンピックの約半年ほど前。
1964年3月24日。
駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワーが、東京のアメリカ大使館で19歳の少年に刺された。
少年には精神疾患があった。
後に「ライシャワー事件」と呼ばれる事件である。
精神衛生法の改正準備は事件以前から進められていたが、この事件を契機に、精神障害者をどう把握し、社会の安全とどう結びつけるかという議論は強まった。
そして翌1965年、精神衛生法が改正される。
警察官や検察官からの通報制度が整備される一方、精神衛生センターの設置、訪問指導、通院医療費の公費負担なども始まった。
つまり、一つの法律の中に、
支えるための制度と、管理するための制度が同居していた。
もちろん、
「東京オリンピックがあったから精神衛生法が改正された」
と単純に結びつけることはできない。
まして、五輪のために路上生活者を一律に精神病院へ収容した、と断定するのも慎重であるべきだと思う。
けれど私には、この二つの出来事が完全に別々のものにも見えない。
3.「収容」という言葉
同じ時代に、街から「浮浪者」が見えなくされようとしていた。
精神障害者については、「社会の安全」という言葉とともに通報や収容が議論されていた。
そしてその背後では、精神病院そのものが猛烈な速度で増えていた。
1950年代半ばから1970年ごろにかけて、日本の精神病床は急増した。
私は、この「収容」という言葉が気になる。
収容。
それは「治療」とは少し違う響きを持っている。
病気を治すために病院へ行くのではなく、
社会の側から見えない場所へ移される。
そんな響きである。
4.うつ病を持つ私
私はうつ病である。
そして、自分を危険な存在だとは自認していない。
私は誰かを傷つけるために精神科へ通っているのではない。
薬を飲み、
今日は外へ出られるだろうかと考え、
何とか一日をやり過ごしている。
文章を書ける日がある。
何もできない日もある。
コンビニまで行けただけで、少し安心する日もある。
それが私の日常である。
私はうつ病を持っている。
けれど、
うつ病が私なのではない。
うつ病は私の一部ではある。
しかし私という人間のすべてではない。
私は文章を書く。
コーヒーを飲む。
人と話す。
くだらないことで笑う。
誰かを心配する。
腹が立つこともある。
その全部を含めて私である。
病名は、私を説明する言葉の一つにすぎない。
私そのものの名前ではない。
だから法律の文章の中で、
「精神障害者」
という文字の近くに、
「自傷」
「他害」
「通報」
「入院」
という言葉が並んでいるのを見ると、少し居心地が悪くなる。
制度が必要であることは理解している。
本人や誰かの生命に差し迫った危険があるなら、医療が強く介入しなければならないこともある。
それを否定するつもりはない。
ただ、
私はまだ何もしていない。
病気になった。
それだけである。
5.病名だけが事件の外を歩き始める
一人の精神疾患を持つ人が事件を起こす。
すると、ときどき病名だけが事件の外へ歩き始める。
「精神疾患のある男」
「精神科通院歴」
「精神障害者」
一人の人間の行為だったものが、大きな属性の話へ変わっていく。
その大きな括弧の中には、私も入っている。
けれど私の日常は、事件とはずいぶん遠い。
薬を飲む。
眠る。
眠れない。
人と話す。
外へ出られない。
今日は出られた。
精神疾患を持つ人の多くの時間は、そんな静かな日常の中にある。
けれど、
「うつ病の人が今日も誰も傷つけず、一日を終えました」
というニュースは流れない。
当たり前である。
静かに暮らしている人間はニュースにならない。
事件だけが見える。
その事件の側から精神疾患を見ると、私たちの日常は簡単に見えなくなる。
6.1964年という年
だから私は、1964年という年が気になる。
世界に見せるため東京を美しくした年。
その直前にライシャワー事件が起き、
翌年には精神衛生法が改正された。
そして同じ時代、日本では精神病床が猛烈な勢いで増えていた。
これらを一本の因果関係で結ぶ証拠はない。
けれど、その底には同じ問いが流れていたように私には思える。
社会にとって都合の悪いものを、どこへ置くのか。
貧困。
路上生活。
精神疾患。
街の秩序からはみ出した人。
高度経済成長の光が強くなるほど、その光の中に入れない人間の影も濃くなったのではないだろうか。
道路は新しくなった。
新幹線が走った。
東京は世界都市になった。
では、その景色から消えた人たちは、
どこへ行ったのだろう。
私は、そのことを考える。
7.精神障害者の人権を、誰が守るのか
1983年、今度は宇都宮病院事件が明るみに出る。
精神障害者は「社会を脅かす側」ではなく、精神科病院の中で人権を侵害される側として現れた。
そこで別の問いが突きつけられる。
精神障害者から社会を守るのではなく、
精神障害者の人権を、誰が守るのか。
1987年、精神衛生法は精神保健法へ変わった。
1995年には、現在につながる精神保健福祉法となる。
衛生。
保健。
福祉。
法律の名前に加わっていった言葉を眺めていると、日本社会が長い時間をかけて、精神疾患を持つ人を「収容する対象」から「社会の中で暮らす一人の人間」へ戻そうとしてきた歴史にも見える。
私は、その方向を信じたい。
8.六十年後、精神医療と行政、報道は進化したのか
では、六十年以上たった現在はどうなのだろう。
私はここについては、はっきり答えたい。
かなり進化したと思う。
精神医療も、行政も、そして報道も。
1964年と現在を同じ線の上に置いて「結局何も変わっていない」と語るのは、私は公平ではないと思う。
もちろん問題は残っている。
それでも、この六十年間に積み重ねられた変化は確かにある。
精神医療では、患者は以前より明確に権利を持つ本人として扱われるようになった。
入院に関する手続きは整備され、病院職員による虐待を通報する制度や、外部の支援員が入院中の本人の話を聞く仕組みも生まれた。
病院の中にいる人にも、
意思がある。
希望がある。
帰りたい場所がある。
話したいことがある。
その当たり前を、制度として守ろうとするところまで精神医療は進んできた。
行政も大きく変わった。
かつて目立っていたのは、
「通報」
「措置」
「入院」
という言葉だった。
しかし現在、行政が担う精神保健福祉はそれだけではない。
医療。
住まい。
福祉。
就労。
介護。
相談。
地域とのつながり。
それらを組み合わせながら、精神疾患を持つ人が地域の中で暮らせるよう支える方向へと変化してきた。
国も「入院医療中心から地域生活中心へ」という考え方を明確に掲げている。
かつて問われたのが、
「この人をどこへ収容するか」
だったとすれば、
現在問われているのは、
「この人が、どこで、どう暮らしていきたいのか」
である。
この変化は、私は素直に評価したい。
そして、報道である。
ここも私は、かなり変わったと思う。
1964年前後の新聞記事を読むと、現在ではまず使われないような言葉で精神疾患が語られている。
「精神異常者」
「精神病者」
あるいは、病気そのものをその人の人格と重ねてしまうような表現。
精神疾患があることと、危険であることの境界も、今よりずっと曖昧だった。
しかし報道は、少なくとも言葉の上では大きく変わった。
象徴的なのが、2002年の「精神分裂病」から「統合失調症」への病名変更である。
約30年間の新聞記事を調べた東京大学の研究では、名称変更後、旧病名は新聞報道からほぼ姿を消した。
病名が持っていた偏見を軽減しようという医学界の動きを、報道側も受け入れたということである。
もちろん、その研究は同時に、統合失調症が犯罪と結びつけて報じられる傾向が残ったことも示している。
だから、報道が完全になったわけではない。
けれど私は、
「問題が残っている」ことと「進歩していない」ことは別だ
と思う。
特に大きいと感じるのは、報道そのものに「人を傷つける可能性がある」という自覚が制度化されてきたことである。
たとえば自殺報道。
現在ではWHOによる自殺報道ガイドラインがあり、日本でも厚生労働省が繰り返しメディアに慎重な報道を求めている。
2023年版のガイドラインでは、自殺の原因を一つの出来事や一つの病気に単純化しないこと、遺書の詳細を報じないことなどが明示されている。
さらに重要なのは、
危機を乗り越えた人や、回復した人の物語を積極的に伝える
という考え方まで示されていることである。
私は、これはとても大きな変化だと思う。
かつて報道は、
「事件が起きた。犯人には精神疾患があった」
というところで終わることができた。
今は少なくとも、
その病名を報じる必要が本当にあるのか。
病気と事件との因果関係は確認されているのか。
一つの原因に単純化していないか。
その報道が、同じ病気を持つ人にどんな影響を与えるのか。
そうしたことまで考えなければならない時代になった。
報道する側にも責任があるという考え方が、以前よりはるかに明確になったのである。
そしてもう一つ。
精神疾患が、事件の中だけに登場するものではなくなった。
うつ病。
休職。
復職。
不登校。
生きづらさ。
治療。
家族。
職場。
当事者の声。
精神疾患を持ちながら暮らしている人の日常そのものが、記事や番組になる。
「精神疾患を持つ人」が、事件記事の中の特殊な人物ではなく、
私たちと同じ社会を生きる一人の生活者として描かれる場所が増えた。
私は当事者として、この変化をかなり大きく評価している。
考えてみれば、私自身が今、
「私はうつ病である」
と公に文章を書いている。
うつ病を抱えながら生活することを書く。
精神医療について考える。
法律を批評する。
社会に意見を書く。
そして、それを読む人がいる。
もし精神疾患が「隠しておかなければならないもの」でしかなかった時代なら、私はこの文章を書いただろうか。
分からない。
少なくとも今より、ずっと勇気が必要だったと思う。
だから私は、
精神医療が変わったことも、
行政が変わったことも、
報道が変わったことも、
きちんと評価したい。
それは自然に起きた変化ではない。
患者が声を上げた。
家族が声を上げた。
医師や支援者が制度を変えようとした。
報道する側も言葉を考え直した。
そして少しずつ、
社会の側が学んできた。
六十年間は長い。
けれど、その六十年間に日本社会は、
「精神障害者をどう管理するか」
という問いから、
「精神疾患を持つ一人の人間が、どうすれば社会の中でその人らしく生きられるのか」
という問いへ、
確かに歩いてきたのだと思う。
まだ道の途中である。
けれど、
私はその歩みを、
進歩と呼びたい。
9.私も、この社会の中にいる
私はうつ病である。
ただ、生きることに少し苦労している一人の人間である。
そして私も、法律が守ろうとしているはずの「社会」の一員だ。
「精神障害者から社会を守る」
そう言った瞬間、その言葉は知らないうちに精神障害者を社会の外側へ置いてしまう。
けれど私たちは、最初からこちら側にいる。
同じ街を歩く。
同じ電車に乗る。
同じコンビニで買い物をする。
眠れない夜を過ごす。
誰かを心配する。
ときには笑う。
今日をどうにか終える。
1964年の東京は、
世界に向かって「美しい日本」を見せようとした。
私は、その写真の外側にいた人たちのことを考える。
そして六十年以上たった今、自分自身もいつか何かの「美しい社会」という言葉の外側へ置かれないだろうかと思う。
だから私は、この問いを残したい。
社会をきれいにするとき、誰を汚れとしてはいないだろうか。
社会を安全にするとき、誰を危険としてはいないだろうか。
私はうつ病を持っている。
けれど、
うつ病が私なのではない。
私は排除されるために病気になったのではない。
私はただ、
この社会の中で、
今日も生きている。
