微糖の缶コーヒーに、午前中を全部持っていかれた。#33
缶コーヒー一本のことを、人はどれくらい長く考え続けられるのだろうか。
その日の私は、家を出てからジムを出るまで、ほとんどそれだけを考えていた。
胸のトレーニングをしながら考え、
インストラクターに褒められながら考え、
マシンからマシンへ移動しながら考えていた。
たった一本の、微糖の缶コーヒーのことを。
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決まったルーティン
最近、朝の散歩は暑さのせいで夜にまわしている。
朝に歩く理由がなくなったぶん、起きる時間は少しだけ後ろにずれた。
七時過ぎに起きて、朝食をゆっくりとる。
八時過ぎ、玄関で嫁を見送る。
「いってらっしゃい」
それからメールを確認して、前日のやりかけを少し進め、メルカリの出品も少し片付けた。
どれも、今日中に終わらせなければいけないものではない。
急がなくていい用事だけが並んでいる朝というのは、会社員だった二十八年のあいだ、一度もなかった。
十時過ぎ、ジムに向かうことにした。
缶コーヒーは、箱で買ってある。微糖。
冷蔵庫から一本取り、車に乗り込んで、飲みながらジムまで走る。
ここのところ、それが決まったルーティンになっていた。
決まったルーティンというのは、意識しなくても体が動くという意味であり、意識しないぶん、一つ抜け落ちても気づかないという意味でもある。
この日、私はなぜか冷蔵庫を開けなかった。
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「あ、コーヒー忘れた」
「あ、忘れた。コーヒー忘れた。」
走り出してすぐ、声に出していた。
誰も乗っていない車の中で、わざわざ言う必要はどこにもなかったのだけれど、口のほうが勝手に動いていた。
(コーヒーが飲みたい、、。)
途中に自販機はある。
寄って一本買えば、それで終わる話だった。
ただ、ジムまでは十分足らずで着いてしまう。
買って、開けて、飲みきる前に到着する。
それはそれで、なんだかもったいない気がした。
結局、そのまま走った。
「今日も暑いな。」
窓の外は、朝からもう夏だった。
暑いと口に出したところで、一度も涼しくなったことはない。
それでも言わずにいると、暑さが自分だけのものになってしまう気がする。
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今買って飲むのは違う
ジムに着いた。
更衣室で着替えて、
荷物をロッカーに入れる。(コーヒーが飲みたい、、。)
ジムの中にも自販機があり、缶コーヒーも売っている。
売っているのは知っていた。
知っていたけれど飲みたいからといって、今買って飲むのは何か違うと思った。
とりあえず、終わってからにしよう。
そう決めて、フロアに出た。(コーヒーが飲みたい、、。)
今日は胸の日だ。
いつもはベンチプレスから始める。
ただ、どうしても肩に力が入ってしまい、胸に効いている感じがしない。
そこで、筋トレYouTuberがやっていたスミスマシンでのプレスを試してみることにした。(コーヒーが飲みたい、、。)
40kg、10回、5セット。
慣れていないので、うまくいかない。(コーヒーが飲みたい、、。)
腕に力が入る。肩に入る。
胸に乗せたかったはずの重さが、毎回、首や肩の後ろあたりへ逃げていく。
(コーヒーが飲みたい、、。)
追い込んでいる最中に考えることではない。
それは分かっている。
分かってはいるのだけれど、頭の片隅は、家の冷蔵庫に入っている一本につながったままだった。
結局、いつものダンベルプレスに切り替えた。
こちらのほうが胸に効かせやすい。(コーヒーが飲みたい、、。)
片手30kg、10回を2セット。
そのあと27.5kgに落として、15回を3セット。
最後の一、二回はギリギリだった。
腕が震えた。(コーヒーが飲みたい、、。)
自分の腕なのに、自分の言うことを聞かない。
汗だくになった。
(コーヒーが飲みたい、、。)
胸の日なのに、いちばん追い込まれているのは頭の中だった。
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この人、絶対働いてないよね。
ダンベルをラックに戻し、
タオルで汗を拭いていた。(コーヒーが飲みたい、、。)
近くで掃除をしていたインストラクターの方が、こちらに声をかけてきた。
女性で、たぶん同年代。たまに話す人だ。
「最近、頑張ってますね」
私は答えた。
「ありがとうございます。頑張ってるんですけど、
筋肉って、なかなかつきませんね。(コーヒーが飲みたいです。)」
インストラクターの方が何か話していたが、
コーヒーを飲みたすぎて、何も話が入ってこなかったので
何を言われたのかは覚えていない。
最近は会社の車ではなく、平日でも自分の車でここに来る。
だから、このインストラクターさんは私のことを、
(この人、絶対働いてないよね。)
という目で見ているのではないか。
そんなことを勝手に感じている。
そう。勝手に。
誰かに言われたわけではない。一度も聞かれたことすらない。
それでも気になる。
私はそういうことをとても気にしてしまう。
けれどその日は、気にならなかった。
コーヒーが飲みたすぎて、全然気にならなかった。
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ほっと落ち着く味と香り。
フリーウェイトを終えて、マシンのエリアに移動する。
ここからは種目を淡々とこなしていく時間だ。
次はエスプレッソマシン、、ではなく、インクラインマシンプレス。
そのあとはショルダープレス、(コーヒーが飲みたい、、。)
ペックフライと続けた。(コーヒーが飲みたい、、。)
トレーニング中は、いつも水を2リットルほど飲む。
喉は潤う。
潤うのだけれど、私が欲しかったのは水分ではなかったらしい。
コーヒーの、あのほっと落ち着く味と香り。
欲しかったのはそれで、水をどれだけ飲んでも、そこには届かなかった。
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姉のEXILE熱
一通り終えて着替え、外に出る頃には、もう昼前になっていた。
駐車場へ向かう途中に、自販機がある。
(よし、コーヒーでも買って、飲みながら帰るか。)
そう思った。
でも。
そのときにはもう、コーヒーは全然飲みたくなくなっていた。
朝からずっと考えていたのに。
更衣室でも、スミスマシンでも、ダンベルの下でも、褒められている最中でさえ考えていたのに。
姉のEXILE熱ぐらいの冷め方だった。
結局、何も買わずに車に乗った。
帰りの車内では、何も飲まなかった。
行きは、あれほど飲みたかったのに。
コーヒーは朝から冷蔵庫にあったし、ずっと同じ場所に売っていた。
先に消えたのは、私の「飲みたい」のほうだった。
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一つ、分かったことがある。
平日の昼間にジムにいる自分を、私はいつも少し気にしている。
誰にも何も言われていないのに、
(この人、絶対働いてないよね)
と思われている気がして、勝手に落ち着かなくなる。
その日は、それが起きなかった。
理由は単純で、コーヒーが飲みたすぎたからだ。
気にしいの性格が治ったわけでも、堂々としていられるようになったわけでもない。
頭の中の席が一つしかなくて、そこに缶コーヒーが先に座っていた。
それだけのことだった。
悩みというのは、正面から消そうとしなくても、もっとくだらない何かに席を譲ることがあるらしい。
少なくともあの日、私の気にしいを追い出したのは、自己肯定感でも開き直りでもなかった。
微糖の缶コーヒー一本だった。
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家に帰ってシャワーを浴び、昼は鶏ハムとおにぎりを食べた。
冷蔵庫を開ければ、微糖の缶コーヒーが箱のまま入っている。
一本取り出して、プルタブを開ければ、それで済む。
けれど、もう全然飲みたくなかった。
朝からあれほどコーヒーを欲しがっていた自分が知ったら、たぶん納得しないだろう。
ジムまでの行きの車、トレーニング中も何度も思い出し、インストラクターさんと話している最中でさえ頭から離れなかった。
それなのに、すぐ目の前にあるコーヒーは、もういらなくなっている。
缶コーヒーは箱で買っておけるけれど、
「飲みたい」という気持ちは買い置きできないらしい。
飲みたい瞬間に飲まなければ、こちらの都合など待たずに、
勝手に消えてしまう。
その短いあいだだけ胸のトレーニングを邪魔し、
インストラクターさんの話を上の空にさせ、
いつもの気にしすぎる性格を頭の外へ追い出しておいて、
帰る頃には何事もなかったようにいなくなっている。
結局その日、私はコーヒーを一滴も飲まなかった。
たった一本の缶コーヒーに、午前中いっぱい振り回されただけだった。
なんやねん、コーヒー。
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#エッセイ #日記 #働き方 #FIRE #退職 #自己肯定感
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