半世紀前の予言──『6羽のかもめ』から考える、テレビが「オワコン」と呼ばれる本当の理由
『6羽のかもめ』というテレビドラマをご存知だろうか?
半世紀も前、1974年の放送なので、リアルタイムでご覧になった方は、もう少なくなっているかもしれない。
しかしこのドラマ、あの『北の国から』の脚本家、倉本聰氏原案・脚本の知る人ぞ知る名作である。
最近、「オワコン」と言われ、また多少「迷走」気味であるテレビだが、かつての黄金時代に、テレビ局の生々しい内輪話をテーマにしたこの作品は、今こそ思い出すべきだと感じて採り上げることにした。
今後のテレビというメディア、そしてエンタメ界の行く末を考える上でも、ぜひご一読願いたい。
半世紀前の「遺言」──『6羽のかもめ』が突いた病根
『6羽のかもめ』は、かつて名高かった「劇団かもめ座」が内紛で崩壊し、残されたわずか6人の劇団員たちが、食べていくためにテレビ業界や芸能界の荒波に飛び込んで悪戦苦闘する姿を描いたコメディである。
公式には「悲しいコメディ」と銘打たれた通り、華やかな世界の裏側にある泥臭い人間模様がこれでもかと描かれた。
冒頭にも述べた通り、この作品の原案、そして脚本を手がけたのは、後に『北の国から』などを生み出す名脚本家、倉本聰氏である。
実は当時、倉本氏はNHKの大河ドラマ『勝海舟』の脚本を執筆していたが、制作陣とのトラブルから途中で降板させられるという苦い経験をしていた。
そのときに抱いたテレビメディアに対する強い怒りと不信感、そして「もっとテレビを良くしたい」という愛着が、このドラマの原動力となっていた。
そのため、劇中では「視聴率至上主義に踊らされるテレビ局」や「安易な企画に走るプロデューサー」が、実話を思わせるリアルさで次々と風刺された。
あまりの内容の生々しさに業界は震撼し、倉本氏は当初、偽名(石川俊子)を使って脚本を書いていたほどである。
特に語り継がれているのが、最終回に向けた名シーンだ。
山崎努氏が演じる放送作家が、テレビカメラを真っ直ぐに見つめ、テレビ業界に関わる者たちに向けて魂の叫びをぶつけるモノローグがある。
「テレビの仕事をしていたくせに、テレビを本気で愛さなかったあんた! テレビを金儲けとしか考えなかったあんた! テレビを決して懐かしんではいけない。懐かしむ資格のある者はテレビを愛し、戦ったことのあるヤツ。それから視聴者、楽しんでいた人たちだけだ」
当時すでに始まっていた、目先の数字や利益のために番組を俗悪化させていくテレビ界への警告。
それは半世紀が経ったいま、さらに鋭い刃となって現代のテレビへと突き刺さる。
自壊を続ける制作現場?
現代のテレビを語る上で避けて通れないのが、コンプライアンスの壁である。
しかし、いまの地上波を見ていると、テレビ局がやっていることは「正しい倫理の追求」ではなく、単なる「炎上を恐れる事なかれ主義」ではないかと思えてならない。
批判を避けるために過剰な自主規制を敷き、結果として番組の牙が抜かれ、どこかで見たような無難な企画ばかりになる。
それによってさらに視聴者が離れ、数字を気にして迷走する。
完全に悪循環にはまっているが、問題はそれだけにとどまらない。
現場の地力そのものが自壊し始めているように私には思える。
最近もある主要局のドラマ制作現場において、制作側とキャストのいき違いともいえるマネジメントに起因する深刻なトラブルが起きた。
現場での丁寧なケアや対話をうまく行っていれば、問題は生じなかったに違いない。
そしていざ問題が起これば、外部の専門家に任せてしまう。
この保身第一の姿勢こそ、まさに『6羽のかもめ』が激しく批判した「テレビを愛さない大人たち」の成れの果てではないだろうか。
作り手自身が作品や現場への愛を失えば、モノづくりの質が落ちるのは必然である。
息を吹き返す映画・配信と「丁寧なモノづくり」の価値
テレビが現場の信頼や地力を失っていく一方で、映画や動画配信の世界は見事に息を吹き返している。
映画『ゴジラ-1.0』が世界中で絶賛され、米国の通算第96回アカデミー賞で視覚効果賞を受賞した快挙は記憶に新しい。
また、Netflixなどのオリジナル作品も、莫大な資金と時間を背景に大きな地殻変動を起こしている。
なぜ彼らはこれほど強いのか。
その理由は極めてシンプルで、テレビが失いつつある「丁寧なモノづくり」を徹底しているからだ。
テレビは無料の公共電波であるため、あらゆる層に配慮した「誰も不快にさせない薄い内容」になりがちだ。
しかし、映画や配信は、自らお金を払って観にくる人々を対象にしている。
そのため、万人受けを狙って表現を濁らせる必要がない。
さらに、映画や大手配信作品は、数年という単位の時間と潤沢な予算を一本の作品に注ぎ込む。
納得がいくまでディテールを磨き上げ、何よりクリエイターの「作家性」をリスペクトして現場をサポートする環境がある。
ノイズに邪魔されず、制作者が職人としてのプライドを貫いて丁寧に作った作品だからこそ、観客の心を深く揺さぶる純度の高いエンターテインメントが生まれるのだろう。
テレビの矜持はどこにある──NHK土曜ドラマに見る一縷の希望
では、地上波テレビにはもう「丁寧なモノづくり」の精神は残っていないのだろうか。
いや、まだ職人の意地を感じる場所はある。
その一つが、近年のNHK「土曜ドラマ」枠(毎週土曜・夜10時)の試みだ。
その象徴ともいえるのが、少し前に放送されたドラマ『3000万』である。
この作品は、NHKが新たに立ち上げた「脚本開発チーム」によるプロジェクトの第1弾だった。
複数の脚本家が集まって共同執筆する海外の手法を導入し、1年以上の歳月をかけてプロットを徹底的に練り上げたという。
日常の小さな出来心から、闇バイトの組織が絡む犯罪の渦へと巻き込まれていく主婦の転落劇。
民放であれば敬遠されそうな生々しく息詰まるサスペンスを、一切の妥協なしにリアルに描ききった。
ほかにも、高齢者の孤独死や療養病棟の現実をテーマにした社会派の作品など、今のNHK土曜ドラマは、かつて民放が持っていたはずの「攻めの姿勢」を遺憾なく発揮している。
スポンサーの意向に左右されない強みを活かし、映画並みの映像美と、あえてBGMで感情を煽らない「間」の演出で人間の本質に迫る。
こうした番組の存在は、テレビがまだプライドを捨てていないという一縷の希望である。
大衆と贅沢な無駄を愛するメディアへの期待
ネット動画が「個人」や「効率」を追求するメディアであるなら、テレビの本質は「大衆」と「贅沢な無駄」にある。
タイパを重視して無音の瞬間をカットするネット動画とは対照的に、テレビには「沈黙」や「視線の交錯」といった空気感をじっくり描写する贅沢な演出ができる。
また、「今、この瞬間の緊張感を、日本中の何百万人が同時に味わっている」という同時性や、チャンネルを回していて予期せぬ未知の分野に出会う偶発性は、テレビが最も得意とする領域だ。
プロフェッショナルたちが知恵と時間を総動員して作った「良質な無駄」を、日本中のお茶の間に向けて同時に放り投げる。
これこそが、テレビにしかできない表現である。
効率や数字だけを追いかけ、トラブルを恐れて日和見を続ければ、テレビは本当に終わるだろう。
しかし、ネットの後追いではない独自の表現を信じ、作り手がもう一度「戦う姿勢」を取り戻すなら、テレビにはまだまだ私たちを熱狂させる底力があるはずだ。
半世紀前の『6羽のかもめ』の警告を胸に、テレビが再び「丁寧なモノづくり」のプライドを取り戻す日を、一人のテレビ世代として切に願っている。🐾
