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『東京タワー』の最後の章を、私はまだ開けない

本棚の端に、カバーの角が少し折れた一冊の文庫本が差してある。
リリー・フランキーさんの『東京タワー』だ。
この本を手に取ったのは、母の癌が判明し、入退院を繰り返すようになった頃だった。内容や結末は、以前観た映画で知っていた。それでも本屋でこの本を見かけたとき、吸い寄せられるように買ってしまったのは、作中に描かれる母親の姿が、どこか私の母と重なって見えたからだと思う。

病状が進むにつれ、母の体は少しずつ小さくなっていった。
以前なら数分で歩けた距離に時間がかかるようになり、好きだった料理の手順を確かめるように手元を凝視する場面が増えた。そんな母の姿を見ながら、私は夜、ベッドの中で少しずつページをめくっていた。

だが、物語が後半に入り、母親の病状が悪化していく章に差し掛かったとき、ふとページをめくる手が止まった。
ここで本を読み進めてしまえば、現実の母の時間まで進んでしまうのではないか。最後の章を開いてしまったら、映画で観たあの決定的な結末が、私の目の前にある現実として確定してしまうのではないか。
そんな幼く、身勝手な恐怖にかられた。映画で一度見たはずの物語なのに、紙のページをめくることだけがどうしてもできなかった。結局、最後の数章を残したまま、私はその本をそっと閉じ、本棚の奥に仕舞い込んだ。

その後、母は2年の闘病の末に亡くなった。
母が亡くなってから時間が経った今でも、私はあの文庫本の続きを読めずにいる。
時折、考えることがある。あのとき私が恐れていたのは、本当に「物語の終わり」だったのだろうか、と。
世の中には、親の病や死を扱った美しい物語があふれている。困難を前に固まる家族の絆、最期に交わされる感謝の言葉、残された者に受け継がれる温かな記憶。そうした作品に触れるたび、人は涙を流し、「家族の大切さ」を再確認する。

しかし、実際の2年間の時間は、そうした綺麗なストーリーで括れるものではなかった。日々の薬の管理、病院の待合室に漂う重苦しい空気、小さくなっていく母の体に触れるときの言いようのない緊張感、そして「今日も無事に終わった」と胸を撫でおろす夕刻の疲労感。そこにあったのは、感動的なセリフでもドラマチックな展開でもなく、ただ泥臭く、出口のないケアの時間だった。

男性である私はどこかで、メディアや物語が提供してくれる「綺麗にパッケージ化された親の死」という枠組みを通してしか、母の現実を見ようとしていなかったのではないか。
結末が怖くて本を閉じたという行動の裏には、目の前で静かにすり減っていく母の生々しい日常と向き合うことから、逃げたかっただけなのではないか。

社会は、誰かの闘病やケア、あるいは悲劇を、わかりやすい「感動的なエピソード」として消費することを好む。
「最後まで諦めなかった強い人」「家族を支え続けた立派な人」。そうした美談に仕立て上げることで、私たちはどこか安心し、自分が何かを理解したような気になってしまう。

しかし、当事者が引き受けている日常は、そうした言葉からこぼれ落ちる無数の「進まない時間」で満ちている。
一歩外に出れば、社会は効率や成果、スピードを求め、何事もなかったかのように動いていく。そうした速い時間の中で、大切な人の衰えに向き合い、立ち止まり、ただ側にいるという「一見すると何も生み出していないように見える時間」の重みを、社会はどれほど考慮に入れてきただろうか。
親の介護や病に向き合う人々に「大変ですね」「立派ですね」と声をかけるだけで、その人が日常で抱えている孤立や負担を、個人の「家族愛」という物語の中に押し込めてはいなかっただろうか。

本棚の奥にある文庫本を、引き出してみる。
途中で折られたページの跡は、あの頃の私の弱さと、母が必死に生きていた時間の記録のようにも見える。
この本を最後まで読むべきなのか、それとも閉じつづけたままにするべきなのか、今も答えては出ない。
ただ、本を開くことすらためらっていたあの2年間、母はフレームの外側で、一瞬一瞬をひとりの人間として生き切っていた。その時間の重さは、どんな美しい物語にも収まりきらない。

私たちは、誰かの生き切った時間を、どれだけ物語ではなく「現実」として受け止めていただろうか。


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