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いつだってそこは晴れている

映画を観た後、なんとなく帰りたくなくて、いつか行ってみたいと思っていた教会まで足をのばした。
おそらく一度も降りたことのない駅で降車する。下校にはまだ早い時間だと思っていたが、駅の近くは制服姿の少年少女でにぎわっていた。
Googleマップで調べながら、住宅街を抜け、坂道を登っていく。茶色く枯れた紫陽花。枯れかけて下を向いた紫陽花。花はぼそぼそになっていても、葉は夏の日射しを受けて緑がきれいだった。そういう色のうつくしさに気づけるようだったら、まだ大丈夫。わたしは自分に言い聞かせながら、背の高い教会の建物を目指して歩いた。

映画では満ち足りた気持ちになっていた。気持ちの安心できるものを持って出かけたし、うれしいサプライズのような出来事もあり、こころがいつもと違う高揚を感じていた。そのような種類の高揚は、たとえ「うれしい」「楽しい」出来事だとしても自分にとっては異質なもので、非日常の枠のすみっこにあっても存在感がある。いつもと違う脂ののったお肉を食べたみたいに、消化酵素が足りなくて、すんなりと血肉になるまでに時間がかかるのだった。

すーんと気持ちが急降下するようだった。日常を超えてぐっと上がったのだから仕方がない。物理の法則にしたがうように、細い管を通って何かが落ちていくようだった。細い管とは、食道かしら。ときどきこんなことをイメージする。小さなわたしが体内の管を通って、胃のあたりにある小屋のようなお家に帰っていくさまを。スキー小屋みたいな小さな小屋で、ドアを開けるといきなりベッドがある。小さなわたしは、ただいまーとドアを開けるなりベッドにダイブできるのだった。そういう、安心する家。

教会というところは、日ごろどの程度訪問者がいるのだろう。わたしはキリスト教信者ではないものの、かつての実家は近くに教会があったため、教会というところに親しみはあるほうだろう。登下校の通学路では、毎朝シスターとすれ違っていた。決まってひとりで、紺色の制服を着てうやうやしく歩いていた。いつも会釈をしてくれたが、あるとき「おはようございます」と声に出して挨拶をしてみたら、当然かもしれないがちゃんと返してくれた。それからはすれ違うたびに挨拶をした。わたしにとって、教会とはそういうイメージと結びつくのだった。

到着するころ、もう一般の人たちの見学できる時間は十分も残されていなかった。長時間いる必要はない。建物に入ると、静寂のなかには数人の人影があった。観光に来たと思われる男女、ひざまずいて祈っている若者、最前席にただ座っている人。背後のオルガンは何かを点検するような音を鳴らしていた。

ただ天井を見ていた。それだけでよかったのだと思う。祈るとか、そういうことがよくわからないままにここへ来ていてごめんなさい、とは、少しだけ感じた。
それを拭うように「みんなが元気でありますように」というような、漠然とした願いというか祈りというか、結局神様への手紙の最後に書く一文はこれなのかもね、という行き着いた凡庸を託す。天井は高く、つめたいグレーの石の隙間から日光を漏らしている。

わたしは、それを最初に観たわたしとは違っているだろう。だからこその内的な揺らぎなのだろう。そう信じたかった。

私たち自身のすべての逡巡と敢行も
光を受けつつ運ばれていって
ついにひとつの聖なる中心に至り、
そこで私たちはもはやだれをも傷つけることなく
そして正しい法にのっとって
安らいの世界に存在するのだ。

「古風な墓のレリーフに寄せる言葉」カロッサ詩集


帰宅してごはんを作り、食べ、食器を洗い、お風呂に入って洗濯して眠る。あした早いからちゃんと起きなきゃ、とアラームをセットする。何もできていないわけじゃない。取り残されているのは、わたしの中の誰かの思い違い。思い違いばかりしてきたね、と言ってやる。だって、そうじゃないなんて誰も言ってくれなかったじゃん。うん。うん。他責のふりをした自責をする彼女の、長い髪を梳いてやる。




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