【186日目】夢野久作「ドグラ・マグラ」を1日1ページずつ読んでいく
思ひもかけぬ旅僧の手練に、さしもの大勢あしらひ兼ね、白み渡つて見えたりければ、雲井喜三郎今は得堪へず、小癪なる坊主の腕立て哉。いでや新身の切れ味見せて、逆縁の引導渡し呉れむと陣太刀長やかに抜き放ち、青眼に構へて足法乱さず、切尖するどく詰め寄り来る。虹汀何とか思ひけむ。奪ひ持ちたる刀を投げ棄て、竹杖軽げに右手に取り直し、血に渇したる喜三郎の兇刃に接して一糸一髪を緩めず放たず、冷々水の如く機先を制し去り、切々氷霜の如く機後を圧し来るに、音に聞えし喜三郎の業物も、大盤石に挟まれたるが如く、ひたすらに気息を張つて唖唖切歯するのみ。虹汀之を見て莞爾と打ち笑みつ。如何に喜三郎ぬし。早や悟り給ひしか。弥陀の利剣とは此の竹杖の心ぞ。不動の繋縛とは此の親切の呼吸ぞや。たとひ百練千練の精妙なりとも、虚実生死の境を出でざる剣は悟道一片の竹杖にも劣る。眼前の不可思議此の如し、疑はしくは其刀を棄て、悪心を飜して仏道に入り、念々に疑はず、刻々に迷はざる濶達自在の境界に入り給へ。然らずは一殺多生の理に任せ、御身を斬つて両段となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那ぞ。如何に/\と詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青褪め眼血走り、白汗を流して喘ぐばかりなりしが、流石に積年の業力尽きずやありけむ。又は一点の機微に転身をやしたりけむ、忽然衝天の勇を奮ひ起して大刀を上段真向に振り冠り、精鋭一呵、電光の如く斬り込み来るを飜りと避けつゝ礑と打つ。竹杖の冴え過またず。喜三郎の眉間に当れば、眼くるめき飛び退き様、横に払ひし虚につけ入りたる虹汀、喜三郎の腰に帯びたる小刀の柄に手をかくるとひとしく、さらば望みに任せするぞと、云ひも終らず一間余り走り退くよと見えけるが、再び大刀を振り上げし喜三郎は、そのまま虚空にのけぞりて、仏だふれに仰のきたふれつ。大袈裟がけに斬り放されし右の肩より湧き出づる血に、雪を染めつゝ息絶えける。
此の勢ひに怖れをなしけむ。残りし者は遠く逃れて、逐はむとする者も見えざりければ、虹汀今は心安しと、奪ひし小刀を亡骸に返し、掌を合はせ珠数を揉みつゝ、念仏両三遍唱へけるが、やがて黒衣の雪を打ち払ひて、いざやとばかり仏像を負ひ取り、人心も無き六美女をいたわり慰めつ、笠を傾け、人馬を急がして行く程もなく筑前領に入り、深江といふに一泊し、翌暁まだ熄まぬ雪を履んで東する事又五里、此の姪の浜に来りて足をとゞめぬ。
AI現代語訳にまだまだ頼る。
しかし姪浜に着いたしこのパートは今日でラストだろうか。
思いもよらない旅僧の腕前に、大人数の捕手たちも手を焼き始め、次第に動揺が広がっていきました。
すると雲井喜三郎は、ついに我慢できなくなったのか、
「生意気な坊主め、なかなかやるではないか。ならば、この新しい名刀の切れ味を見せてやろう。貴様を斬って、地獄への引導を渡してくれる!」
と叫び、大太刀を長々と抜き放ちました。
そして正眼に構え、足運びも乱さず、鋭い切っ先を虹汀へ向けてじりじりと迫ってきます。
虹汀は何を思ったのか、奪った刀を捨て、竹杖を軽く右手に持ち替えました。
そして、血に飢えたような喜三郎の刃と向き合い、一瞬の隙も与えず、その動きを封じ込めていきます。
虹汀の気配は、冷たい水のように静かでありながら、氷や霜のような鋭さで相手を圧倒していました。
名刀を持つ喜三郎も、まるで巨大な岩に挟まれたように動けず、歯ぎしりしながら息を詰めるばかりです。
その様子を見て、虹汀はにっこりと笑いました。
「どうだ、喜三郎殿。もう悟ったか。
阿弥陀の利剣とは、この竹杖の心なのだ。不動明王の縛りとは、この呼吸そのものなのだ。
たとえどれほど鍛え抜かれた剣術であろうと、生死や勝負への執着を超えられぬ剣は、悟りを得た一本の竹杖にも及ばない。
目の前の不思議をよく見よ。疑うならその刀を捨て、悪心を改めて仏道へ入れ。迷いを離れた自由自在の境地へ至るのだ。
それができぬなら、“一人を斬って多くを救う”という道理に従い、私はお前を斬って、唐津藩に降りかかった災いを断つ。
今こそ、生と死の境目だ。地獄へ落ちるか、救われるか、その分かれ道だぞ」
そう言ってじりじりと詰め寄ると、あれほど豪胆無敵だった喜三郎も、顔色を青ざめさせ、目を血走らせ、脂汗を流して荒い息をつくばかりでした。
しかし、長年積み重ねた武人としての気迫が尽きてはいなかったのか、それとも一瞬の隙を見出したのか――。
突然、天を衝くような気迫を奮い起こし、大刀を頭上高く振りかぶると、雄叫びとともに雷光のような勢いで斬りかかってきました。
虹汀はひらりと身をかわし、その瞬間、鋭く竹杖を打ち込みます。
竹杖は寸分違わず喜三郎の眉間を打ち据えました。
喜三郎は目をくらませて飛び退き、横薙ぎに刀を払いましたが、その隙へ虹汀が踏み込み、喜三郎の腰の小刀へ手をかけるや、
「ならば望み通りにしてやろう」
と言い終えるか終えないかのうちに、一間ほど飛び退きました。
次の瞬間、再び大刀を振り上げた喜三郎の身体が、突然のけぞるように仰向けに倒れました。
右肩から胸へかけて深々と斬り裂かれていたのです。
噴き出した血が雪を真っ赤に染め、そのまま息絶えました。
その凄まじさに恐れをなしたのでしょう。残っていた者たちは遠くへ逃げ去り、追おうとする者もいませんでした。
虹汀はようやく安心すると、奪った小刀を死体へ返し、手を合わせて数珠を揉みながら念仏を二、三度唱えました。
そして黒衣についた雪を払い、再び仏像を背負うと、放心状態の六美女をいたわり励ましながら、人馬を急がせました。
ほどなく筑前領へ入り、深江という土地で一泊し、翌朝、まだやまぬ雪を踏みしめながらさらに東へ五里ほど進み、姪浜へたどり着いて足を止めたのです。
阿弥陀の利剣ってなんだろうと思ってググってみると、もともと中国では智慧が鋭い剣で例えられていたものを日本では面白いからということで?本当に阿弥陀が剣や槍を持って戦うモチーフが出てきたらしい。
尖った剣のようなフォントで念仏を書いたりもするらしい。
それにしても喜三郎は退場していくだろうなと思っていたが、こんな最後だとは。
