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たとえばその「きれはし」に、嘘が書いてあったとして

ヒコロヒーさんのエッセイ『きれはし』を読んだ。

文章を書き始めた日のことから始まり、金がなさすぎる毎日の中で芸人として生きていくことの逞しさや不安や葛藤や喜びが、はちゃめちゃに、真摯に綴られていて、胸を打つ。ヒコロヒーさんの人生の、まさに「きれはし」に触れて、私は一気にヒコロヒーさんを好きになった。

おもしろい文章というのは、まだまだこの世に山ほどあって、出会うたびに少しずつ影響を受けて、私の書くものもまた変わっていく。何を栄養にして、何を捨てていくか、毎日毎秒、無意識の私は選んでいて、そのほんの少しの選択の違いが今の私の文章を作っているのだと思うとホントにおもろいなと思う。

人生のターニングポイント、なんて言葉があるけど、いつどこで生まれて、どんな言葉を投げかけられて、どんな出来事に遭遇して、どんな人に出会ってきたのか。そのすべてが漏れなく私に影響を与えているのだとしたら、毎日毎日ターニングポイントだらけだ。

例えば今日の私のこの短い投稿も、『きれはし』を読んでいなければ書いてないだろうし、そもそもnoteを始めたあの日がなければnoteにおける私なんて存在すらしてないし、遡れば読書というものの面白さを教えてくれたのは私の父や母であって、身の回りに本が転がりまくっているわが家でなければ、私は本を手に取ることもなく別の何かに夢中になっていて、本屋で『きれはし』を手に取ることもやっぱりなかったのかもしれない。

そういう意味で、
私が書くものは、私という人間によく似てる。

私が生きてきた一分一秒が、記憶が、感情が、今の私を生み出していることは間違い無くて、その私の感性や考え方が、私の文章を生み出していることもまた間違いない。たとえばその「きれはし」に、嘘が書いてあったとしてもだ。

そこに書かれていることが、本当か嘘か、美しいのか醜いのか、人を喜ばせるものなのか、はたまた誰にも届かないものなのか、それはわからないけど。

わからないけど、「私」である。

何を書こうが、その一点は疑いようもない気がして、私だけは、こんな「私」のきれはしを、抱きしめてあげたいと思うのだ。

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