この感動の続きはプレミアムプランで
1、お母さん
母の匂いがした。
洗濯したばかりのタオルのような、少しだけ埃っぽくて、でも安心する匂い。
俺は 5歳のままの背丈で、母の膝に頭を乗せていた。
「おかえり」
母が言った。声も、あの頃のままだった。
俺は覚えている。
母が死んだのは18年前だ。
俺が7歳の冬、病室のベッドで、痩せた手で俺の頬に触れながら
「大丈夫、大丈夫」
と繰り返していたこと。あの手の感触を、俺は三十年近く忘れずにいた。
夢の中で、俺は母の手を握った。
温かかった。
涙が溢れた。
声にならない嗚咽が喉からせり上がってきて、俺は母の体に腕を回そうとした。
抱きしめたかった。
ただ、それだけがしたかった。
「お母さん」
やっと声が出た。
その瞬間だった。
「この感動の続きは、プレミアムプランで。」
視界の端に、半透明の文字が浮かんだ。
同時に、母の手に握られていたはずのものが、いつの間にか炭酸飲料の缶に変わっていた。
母はそれをプシュッと開け、一口飲むと、にっこり笑って画面の外——もはや「画面」としか言いようのない何か——に向かって微笑んだ。
背景の畳の間が、ゆっくりと企業ロゴの青に塗り替えられていく。
俺は目を覚ました。
天井が見えた。
スマート照明が、起床を検知して自動で調光を始めていた。枕元の通知パネルには
「広告視聴によりポイント1付与」
の文字。
俺はしばらく動けなかった。
2、睡眠資源解放法
政府が「睡眠資源開放法」を施行したのは5年前のことだ。
「睡眠中の脳は未使用資源である」というのが、当時の官房長官の言葉だった。
人間は人生の3分の1を眠って過ごす。
その間、脳という高性能な情報処理装置は、ほとんど何もせずに遊んでいる。
これを国家の資産として活用しない手はない、と。
代わりに、睡眠税は撤廃された。
多くの国民がそれを歓迎した。
眠るだけで税が浮くのだ。
悪い話ではない、と誰もが思った。いや、思わされた。
俺も、最初はそう思わされた一人だった。
眠っている間、脳波に同期した広告が夢に挿入される。
テレビCMのような、わかりやすい介入もあれば、今日のように、感情の高まった瞬間を狙って商品が「自然に」溶け込んでくるタイプもある。
悲しい夢、嬉しい夢、性的な夢——脳が強い感情を発する瞬間ほど、広告の想起効果と購買意欲は高まるらしい。
だから広告は、いつも一番痛いところを狙ってくる。
スキップは5秒後から可能。
完全に広告を消すには、月額9800円のプレミアムプランへの加入が必要だった。
高い。俺はそう思った。眠っている間くらい、金を払わず自由でいたい。
そう思って、契約しなかった。
3、思い出せない
それから、母の夢を見る回数が増えた。
いや、正確に言うと——増えたのかどうか、俺にはもうわからなくなっていた。
初恋の相手と歩いた高校の帰り道。
文化祭の準備で徹夜した教室。
田舎の祖母の家の縁側。
どの夢にも、必ず広告が割り込んできた。
最初のうちは苛立った。
せっかくの思い出が中断される度に、舌打ちしたい気分だった。
だが数ヶ月経つ頃には、違う種類の恐怖に気づき始めていた。
広告が流れることではない。
広告のない夢を、もう思い出せないことだった。
母と再会する夢を、何度も見た。
そのたびに、母は同じタイミングで炭酸飲料を飲み始め、同じ笑顔で振り返った。
俺は次第に、その笑顔の角度や、缶を持つ指の形まで、はっきりと思い出せるようになっていった。
一方で——母の本当の最期の顔を、思い出そうとすると、輪郭がぼやけた。
母の声。あの震えるような、優しい声。
思い出そうとすると、なぜか炭酸飲料のCMソングのメロディが先に浮かんできた。
4、アバター
ある夜、俺は解約規約――いや、最初に同意したはずの利用規約を、もう一度読み返してみることにした。
眠る前、スマートグラスに投影される長い文書。
誰も読まない、読めるはずのない、数百ページの規約。俺はスクロールバーを使って、その中の一文を探した。
見つけた条項には、こう書かれていた。
「本サービスの提供にあたり、利用者が過去にアップロードした写真・動画・音声データ、および利用者の近親者に関する生体・音声・画像データは、感情エンゲージメント向上を目的として、提携パートナー企業による広告コンテンツ生成に利用されることに同意するものとする」
俺は、その一文を三度読んだ。
近親者の、生体・音声・画像データ。
思い出した。母が亡くなる前、まだ元気だった頃の家族旅行の写真を、俺はクラウドにアップロードしていた。
それだけではない。母の遺品を整理していたときに見つかった、古いビデオテープ。あれも、動画化サービスを使ってデジタル変換し、同じクラウドに保存していた。
母の顔。母の声。母の仕草。
すべて、データとして、どこかのサーバーに存在していた。
夢の中の母は――あの温かい手も、優しい声も、涙を誘うあの表情も――最初から、俺のデータを学習して生成された、広告のためのモデルだったのだ。
俺が抱きしめようとしていたのは、母ではなかった。
母の形をした、広告用アバターだった。
5、静かに抱きしめさせて
それに気づいた夜も、俺は眠った。
眠らないという選択肢は、もう俺にはなかった。眠らなければ、次の日の仕事に支障が出る。
それに——正直に言えば、俺はまだ、あの夢の中の「母」に会いたかった。
たとえそれが広告でも。
たとえそれが、企業が俺の悲しみを収益化するために作り上げた、精巧な模造品だとしても。
夢の中で、母がまた微笑んだ。
「おかえり」
俺は今度は、涙を流さなかった。ただ黙って、母の——いや、母の形をした何かの手を握った。
「この感動の続きは、プレミアムプランで。」
文字が浮かぶ。母が炭酸飲料を飲み始める。
俺は今度は、笑った。
契約しよう、と思った。
月額9800円。
安いものだ。
だって俺はもう、広告のない本物の母の記憶と、広告付きの偽物の母の記憶を、区別できなくなっているのだから。
どうせ同じものが見られるなら、せめて涙を流し終えるまでの5秒間くらい、静かに抱きしめさせてほしい。
そう思った翌朝、俺は目を覚まし、通知パネルに手を伸ばした。
「プレミアムプランへようこそ。これより、あなたの夢はより深く、より鮮明に。」
画面の下に、小さな文字でこう続いていた。
「なお、本プランでは新機能として、故人との対話シナリオを月額2000円で追加できます。」
俺は、迷わず「追加する」をタップした。
