【キャンベラ🇦🇺】出発前の1時間。湖畔で野生のカンガルーに出会った
2026年GW。
世間が「ゴールデン」な連休を過ごしている中、
どこか色味の薄い数日間を過ごしている人間がいた。
私である。
ここ数年、GWはだいたい海外出張に消える。
それは今年も例外ではなかった。
行き先はベトナム、そして、オーストラリア。
旅行では何度か来ている国だが、今回は違う。
朝から晩まで、隙間なく仕事が入る。
出張自体は嫌いではない、というよりもむしろ好きだ。
なので別にいいのだが、「ランナー」としてとなると、走る時間の確保が当然難しくなってくる。
そう思っていた。
ベトナム日程を終え、次の目的地であるオーストラリアの首都キャンベラに入る。
意外にも知られていない事実だが、オーストラリアの首都はシドニーでもメルボルンでもない。
キャンベラだ。

オーストラリアでも、キャンベラは初上陸だった。
いかにも「政治の都市」という感じで、首都とは思えないほど静かな街だった。
湖の周囲には国会議事堂や政府機関が並び、街全体がどこか整然としている。

今回の首脳会談のためだろうか、警護の人たちの姿も目立った。
落ち着いた街全体の中で、独特の緊張感が漂っている。
華やかさよりも、「国家の機能」がそこにある。
そんな街だった。

南半球は秋だ。
木々がゆっくりと色づき始めている。
整備された湖畔。
広い空。
余白の多い街。
「ここ、絶対走ったら気持ちいいだろうな。」
込み上げる思いに無理やり蓋をし、そのまま日程は着々と過ぎていく。
そしてついに最終日。
日本に帰国する政府専用機が出発する朝だ。
その数時間前に、ぽっかりと「何も入っていない時間」があった。この出張で、唯一自分の意思で使える時間。
走るなら、ここしかなかった。
朝6時。
電子アラームの乾いた音で目が覚める。
眠い。
昨日も遅くまで宿舎で作業をしていた。
正直、あと1時間は寝ていられる。寝たい。
それでも、寝るのは帰りの機内でもできる、と自分に言い聞かせながら、半ば強引に身体を起こす。
寝ぼけながらランニングウェアに着替える。今まで何万回とやってきた動作だ。半分寝ていても機械的にできる。
勢いのまま外に出る。
警備員が不思議そうにこちらを見る視線を感じる。
気温は15度ちょっと。
ひんやりとした空気が気持ちいい。
湖畔沿いをゆっくり走り出す。


朝の空気は冷たかった。でも不快な冷たさではない。身体の輪郭を、静かになぞっていくような冷たさだった。
最初の1キロくらいは、いつも身体がまだ眠っている。脚は重いし、呼吸もどこか借り物みたいだ。
そういう時間を嫌いではない。エンジンのかかりが悪い古い車みたいで、むしろ安心する。
走っているうちに、少しずつ身体がこちら側に戻ってくる。
この瞬間が何よりも好きだ。
外の世界と、自分の内側が、ちょうど噛み合ってくる。呼吸と歩幅が揃い、頭の中の余計なノイズが減っていく。
世界と自分との間にあった薄い膜が、ふっと消えるみたいな瞬間だ。
音楽などは敢えて聴かない。
その必要はないと思ったからだ。
湖面に反射する朝の光を眺めながら、今回の滞在のことや、たわいもないことを考えながらゆっくり走る。
色づき始めた木々を横目に、頭に浮かんでは消える感情を、そのまま流しながら走っている。
遠くで鳥が鳴いていて、ときどき自転車やランナーが横を抜けていく。
空は広く、街は静かだった。
キャンベラは、本当に走りやすい街だった。
今まで様々な世界中の都市を走ってきたが、その中でも指折りに走りやすい街だ。
バーリー・グリフィン湖を眺めながら走る時間は、ただただ気持ちよかった。

バーリー・グリフィン湖は、キャンベラの中心にある人工湖だ。
人工湖とは思えないほど自然に街へ溶け込んでいて、地元の人は単に"The Lake"と呼ぶらしい。
湖の周辺には連邦最高裁判所や国会議事堂などの政府中枢機関が集まっている。
大きな湖のまわりの道はよく整備されており、走ることに集中できる理想的な道が続いている。湖を一周すると20kmほどあるらしく、朝でもランナーやサイクリストとすれ違う。
余計なものがない。
ただ、身体を動かすことに集中できる環境がある。
「ここに住んで毎日走れたら、かなり速くなりそうだな。」
そんなことを思いながら、淡々と進む。
宿舎から4kmほど走ると、半島のように突き出たWeston Parkという公園に出た。


朝の光が、ゆっくりと木々の間に差し込んでいる。
その中を気持ちよく走っていると、
前方に、小さなヒト型のような何か動くものが見えた。
「子どもだろうか?」
……にしては小さい。
少し近づく。
「……え?」

そう。
そこにいたのは、
野生のカンガルーだった。

「……冗談でしょ。本当にいるのか。」
しかも、1匹じゃない。
群れでいる。
軽く数えただけでも20匹はいるだろう。

一瞬、思考が止まる。
でもすぐに理解する。
「そうか、ここはオーストラリアだった。」
宿舎内で終日作業をしていたので、すっかり忘れてしまっていた。
カンガルーの1匹と目が合う。
向こうもこちらを認識しているが、逃げない。
ただ、じっとこちらを見ている。
妙な迫力があった。
あの脚力で蹴られたら危なそうだな、と思う。
襲われたら多分勝てない。
人間には慣れているのだろうか。
そんなことを考えていると、奥の方では、まったくこちらを気にせず、2匹がぶつかり合うように「バトル」が始まっていた。

しばらく、その場に立ち尽くしていた。
走ることも忘れて、ただ眺める。
10分くらい経過しただろうか。
不思議と、何も考えていなかった。
ただただ、この「非日常」が楽しかった。
この10分のために、GWを丸ごと差し出した気さえした。
興奮冷めやらぬまま、来た道を走って戻る。
清々しい。
同じ道を走っているはずなのに、どこか新鮮だ。

そのまま宿舎に到着する。
ログを見ると、8キロちょっと気持ちよく走っていた。

部屋で急ぎでシャワーを浴びる。
何事もなかったかのようにスーツに着替える。
そして政府専用機に乗り込む。
その数時間前まで、カンガルーを眺めていたとは思えない顔で。
もしあの朝、「あと1時間だけ寝よう」と思っていたら、この景色には出会えなかった。
たった1時間。
でも、その1時間は、完全に自分のものだった。
走ることは、特別なことじゃない。
シューズさえあれば、どこにいてもできる。
でも、その場所、
そのタイミング、
その身体でしか得られないものが必ずある。
これからも、たぶん世界中で同じことを繰り返す。
どこかの国で、わずかな隙間を見つけて、走る。
そして、たまに思いがけない「何か」に出会う。
自分の人生、その積み重ねでいいと思っている。

【自己紹介はこちら】
