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【短編小説】(後)超個人情報保護法— Protect Your True Face? (2話完結)

最終話 素顔の世界

ガラスの向こうでは、路上の男が赤い警報ランプの点滅を浴びながら、夏の淀んだ空気を貪るように吸い込んでいた。剥き出しになった額から汗が流れ、顎を伝って熱を帯びた歩道へ落ちていく。真正顔貌しんせいがんぼうを検知した警報が鳴り続けるなか、男は膝へ両手をつき、それでも認可フェイスを着け直そうとはしなかった。

周囲には足を止めた人々の輪ができていた。誰もが認可フェイスの奥から男を見つめ、異常なものから距離を取るように半歩ずつ後ろへ下がっている。そのなかには、驚きや警戒とは違う視線も、いくつか混じっていた。

上空から巡回機が接近し、《真正顔貌を確認しました。ただちに顔貌保護具を再装着してください》と警告を繰り返す。男は返事をせず、唇を開いたまま大きく息を吸った。顔を晒しているというより、生きるために空気を求めているだけの姿に見えた。

背後で、くぐもった呼吸音が響いた。真壁が振り返ると、シロが待合用の椅子から力なく滑り落ちかけていた。片手で胸元を押さえ、もう一方の手で認可フェイスの顎を掴んでいるものの、指先には留め具を動かす力が残っていない。

顎部の給水口から水滴がこぼれ、膝の上へ落ちていた。冷却機能は限界に達し、排熱口から生温かい空気が漏れている。薄い服の背中まで汗に濡れ、肩は浅い呼吸に合わせて細かく上下していた。

真壁は咄嗟にその体を支えた。腕のなかへ倒れ込んできたシロの体は、触れた瞬間に手を引きたくなるほど熱かった。認可フェイスの観察孔の奥で瞼がわずかに動いたが、焦点は合っていない。

「シロさん、聞こえますか」

返事はなかった。密閉された人工皮膚の内側から、空気を引っかくような呼吸音だけが漏れてくる。真壁はシロの体を椅子へ深く座らせると、作業台の端に置いてあった規定集を引き寄せた。

事故、火災、浸水、通信障害。厚い冊子のページをめくり、緊急時の対応項目を目で追う。救命時の欄に記されていたのは、生命に重大な危険がある場合、認可を受けた救急隊員は認可フェイスを解除できるという一文だけだった。

装着者本人の意思を確認できない場合について、それ以上の記載はない。製作師は装着前の点検や調整、破損部品の交換を行えるが、装着後のフェイスを本人の許可なく外せば、真正顔貌の不正開示にあたる。たとえ自分が作ったフェイスでも、その扱いは同じだった。

真壁は別の例外規定を探し、何度もページをめくった。どの項目も解除権限を持つ者の種類と申請手順を説明するばかりで、今ここにいる者が何をすべきかは書かれていない。

壁面端末に表示された救急車の到着予定は、二十二分後だった。路上の真正顔貌警報しんせいがんぼうけいほうによって周辺の交通規制が始まり、警察車両が交差点を塞ぎつつある。この混乱のなかで、表示どおりに救急車が着くとは思えなかった。

真壁は冷却用の送風機をシロの首元へ向け、濡らした布を認可フェイスへ押し当てた。外側からどれほど冷やしても、内部へこもった熱は逃げていかない。留め具を外せば呼吸は楽になり、人工皮膚を取り除けば直接冷却できることを、真壁は誰よりも知っていた。

待合席にいた青年が立ち上がった。先ほどまで初めてのデートに使う顔の審査結果を気にしていた彼も、作業台の上にある自分の認可フェイスを見ようとはしない。シロと規定集を交互に見つめ、声を震わせた。

「俺の顔は十五分も審査したのに、この人の命は待たせるんですか」

真壁は答えなかった。シロの顎へ伸ばしかけた手を止める。解除すれば、自分の製作者番号が記録され、真正顔貌検知装置から警察へ自動的に通報される。十八年間守ってきた資格も、この工房も、そこで終わるかもしれなかった。

窓の外では、路上の男を取り囲んだ警察官が、拡声器で再装着を命じていた。命令を繰り返す声に重なり、シロの喉から細い音が漏れた。真壁は規定集を閉じ、作業台へ置いた。

「今から、規則にないことをします」

青年が息を呑むなか、真壁は両手でシロの顎を固定した。本来なら、専用端末へ解除理由を入力し、行政機関から一時許可を得たあとで開く留め具だった。今はその手順を一つも踏まず、左右の金属部品へ指をかける。

留め具を押し込み、隠されていた非常用の接続部へ細い器具を差し込んだ。短い警告音が鳴り、作業端末に《規定外解除》の文字が浮かび上がる。真壁は画面を見ず、そのまま認可フェイスをゆっくりと引き剥がした。

密閉されていた熱気が、一気に外へ漏れた。認可フェイスの裏面から汗が流れ、冷却装置の周囲まで濡れている。人工皮膚は熱を含んで柔らかくなり、指へまとわりつくような感触を残した。

その下から現れたのは、熱で赤く火照り、髪が額へ張りついた、ごく普通の女性の顔だった。眉間には苦しさによる皺が寄り、乾いた唇はわずかに開いている。真壁は首元へ冷風を送り、濡れた布を額へ当てた。

青年は言われる前に給水器を持ってきて、シロの口元へ少量ずつ水を運んだ。すぐには飲み込めず、いくらかが頬を伝って床へ落ちる。それでも数滴が喉を通ると、シロの胸が大きく上下し、奥から深い息が漏れた。

「ゆっくりでいいです。息をしてください」

シロは何度か呼吸を繰り返したあと、薄く目を開いた。突然素顔を晒されたことへの恐怖と、ようやく空気を吸えた安堵が、隠されることなく同じ顔に現れていた。真壁は、ただ呼吸と脈を確かめた。

青年がシロのそばへ膝をつき、目線を合わせる。

「聞こえますか。もうすぐ救急車が来ます」

シロの唇がわずかに動いた。声にはならなかったが、青年は頷き、もう一度水を含ませた。真壁は首筋と額を冷やし続けた。

やがて工房の真正顔貌検知装置が高い警告音を発し、壁面が赤く染まった。《真正顔貌一名》《規定外解除》《製作者番号確認済み》という表示が繰り返され、警察への自動通報が完了したことを知らせる音が響く。

真壁は外した認可フェイスを床へ置かず、普段どおり柔らかな布の上へ載せた。違反の証拠となった今も、それはシロの父親が娘を守るために選び、真壁自身が時間をかけて作ったものだった。内側に残った汗を拭き取る手つきにも、いつもの作業と変わるところはなかった。

数分後、警察官と救急隊員が工房へ入ってきた。救急隊員は認可フェイスが外されていることへ一瞬だけ目を止めたが、何も言わずにシロの状態を確認し、酸素吸入と冷却処置を始めた。問いただすよりも先に救命へ動いた姿を見て、真壁はわずかに肩の力を抜いた。

シロはストレッチャーへ乗せられ、工房の外へ運び出された。意識はまだ朦朧としていたが、呼吸は先ほどよりも安定している。救急車の扉が閉まる直前、シロの目が真壁を探すように動き、姿を見つけると小さく瞼を下ろした。

真壁は入口に立ったまま、救急車が通りの向こうへ消えるまで見送った。警察官の一人が工房へ入り、作業台と解除された認可フェイスを確認する。別の警察官は端末を開き、真正顔貌検知装置に残された記録を読み込んだ。

「解除を行ったのは、あなたですね」
「はい」
「装着者本人から明確な許可は得ましたか」
「会話ができる状態ではありませんでした」
「救急隊員の到着を待たなかった理由は?」
「待てる状態ではなかったからです」

警察官は抑揚のない声で質問しながら、端末へ入力を続けた。彼の素顔は認可フェイスに覆われ、視線の動きも口元の変化も見えない。

「救命のために外しました」
「それを判断する権限は、あなたにはありません」

警察官は規定違反の項目へ印を付けた。真壁は認可フェイスの奥にいるはずの相手を見つめ、あのまま待っていれば、シロの呼吸がいつ止まっていたのかを考えた。

「では、誰が死ぬところまで待てば、私にも分かったのでしょうか」

警察官の指が止まった。返事はなく、認可フェイスの表情も変わらない。数秒後には再び端末へ入力を始めたが、その動きは先ほどよりわずかに遅くなっていた。

工房の外では、青年が別の警察官へ事情を説明していた。声は微かに震え、うまく伝わらない焦りから何度も言葉を重ねている。質問を挟まれても、青年は自分が見たことを崩さずに話し続けた。

「あの人は、すぐ外したわけじゃありません」
「救急車を待とうとしていたんです」
「それでも、あの女性が息をできなくなって」
「この人が外さなかったら、死んでいたと思います」

警察官は黙って記録を取り、青年はその場を離れなかった。自分の認可フェイスを受け取りに来ただけの彼が、なぜそこまで残ろうとするのか、真壁には分からない。ただ、青年が何度もこちらを振り返るたび、工房に一人で残されたという感覚が少しだけ薄れた。

事情聴取が終わると、真壁の製作師資格は一時停止となった。捜査が終わるまで製作業務は禁止され、行政機関の審査によっては資格を取り消される可能性もあるという。警察官は壁面端末へ営業停止の通知を表示し、確認を求めた。

証拠品として認可フェイスを持ち去ろうとした警察官に、真壁は少し待つよう告げた。内側に残った汗を丁寧に拭き取り、破損しないよう専用ケースへ収めてから手渡す。警察官は急かさず、その作業を黙って見ていた。

警察車両が去り、赤い警報表示が消えたあとも、真壁は作業台の前に立っていた。壁には製作師資格証が掲げられ、その隣で営業停止の通知が白く光っている。いつも聞こえていた加工機の音はなく、冷却装置の低い駆動音だけが店内に残った。

青年が入口から戻ってきた。審査中だった彼の認可フェイスは、透明なケースの中に置かれたままになっている。本人より落ち着いて見えるよう眉と口角が整えられ、初対面の相手へ安心感を与える顔として完成を待っていた。

「今日は、受け取れませんよね」
「資格が停止されましたので、引き渡すことはできません」
「分かりました」
「申し訳ありません」
「謝るのは、俺にじゃないと思います」

青年はケースの中の顔を見たあと、シロが運び出された入口へ視線を向けた。真壁も同じ方向を見たが、救急車はすでに見えない。遠くの通りから、別の真正顔貌警報が聞こえていた。

「さっきの女性、大丈夫でしょうか」
「搬送時には呼吸が戻っていました」
「そうですか」

青年は息を吐き、工房の出口へ向かった。自動ドアの前で一度足を止めると、透明なケースの中の顔と真壁を交互に見る。

「あの人は、作られた顔より、さっきの顔のほうがちゃんと生きているように見えました」

真壁が返す前に、青年は外へ出ていった。残された認可フェイスは、作られたばかりの穏やかな表情で、空になった待合席のほうを向いていた。

その夜、病院からシロが一命を取り留めたという連絡が入った。重度の熱中症で数日の入院が必要になるものの、後遺症が残る可能性は低いという。真壁は短く礼を述べて通信を切り、照明の落ちた工房で一人、使われなくなった作業台を見つめた。

翌朝から、工房の前には報道関係者が集まり始めた。真正顔貌を本人の許可なく開示した製作師として真壁の名が報じられ、映像にはストレッチャーで運ばれるシロと、警察官に囲まれる真壁の姿が何度も流れた。店の窓には取材用端末が向けられ、扉を開けるたびに質問が投げかけられた。

一部の番組は、規則を破った危険な製作師として真壁を批判した。本人の同意なく顔を晒す行為は、救命目的であっても認められないという専門家の意見が紹介され、認可フェイス制度の信頼を揺るがした責任を問う声も上がった。

別の番組では、なぜ製作師に緊急解除権限がなかったのかという疑問が取り上げられた。救急隊員の到着を待つ間に重症化した事例を調べると、同じような事故が各地で起きていたことが分かった。

通学中に倒れた子どもの認可フェイスを、母親が外せずに救急隊員を待った映像も流れた。母親は泣きながら何度も解除許可を求め、周囲の大人たちは警報が鳴ることを恐れて触れられずにいる。救急隊が到着した時には子どもの意識はなく、その後も長い入院が必要になったという。

真壁は端末の音量を下げた。画面の中で母親の口が動き続けている。何を叫んでいるのか聞こえなくても、あの日の青年と同じ言葉を繰り返しているように見えた。

路上で自ら認可フェイスを外した男も、ニュース番組の取材を受けた。額には深い皺があり、鼻筋も左右対称ではない。人前で顔を見られることに慣れていないのか、何度も目を伏せながら、手の甲で汗を拭っていた。

記者が、なぜ法律に違反してまで顔を外したのかと尋ねると、男は少し考えてから答えた。

「死ぬくらいなら、顔くらい見られてもいい」

短い言葉だった。法律を批判したわけでも、自分の行動を正しいと言い切ったわけでもない。それでも、その一言をきっかけに、認可フェイスの内側で苦しさに耐えていた人々が、自分の体験を語り始めた。

法律の廃止を求める署名が増える一方で、認可フェイスによって救われてきた人々も声を上げた。顔写真を無断で拡散された者、外見を理由に長年中傷されてきた者、過去の犯罪被害から身元を守る必要がある者にとって、制度は単なる拘束ではなかった。

シロの父親も取材を受け、法律の全面廃止に対する不安を語った。彼は認可フェイスを装着したまま、病院の面会室で記者の質問に答えていた。落ち着いた声を保っていたが、膝の上で組んだ指には力が入っていた。

「娘が助かったことには、感謝しています」
「娘に外すなとは言えません」
「でも、私まで外せと言われたら、また外へ出られなくなります」
「隠している人間が、間違っているわけではないはずです」

シロは病室でその映像を見ていた。父親は病院内でも認可フェイスを装着し、シロは外したまま過ごしている。父親が再装着を求めることも、シロが父親へ外すよう迫ることもなかった。

週末、国会議事堂前で大規模な集会が開かれた。法律の廃止を求める者、緊急解除規定の改正を求める者、制度の維持を訴える者、素顔を見せたくない者が同じ場所へ集まった。掲げられた主張は一つではなく、そこに並ぶ顔も同じではなかった。

留め具を外し、素顔のまま立つ人がいる。その隣では認可フェイスを着けた人が、《隠す権利を奪わないで》と書かれた紙を掲げていた。半分だけ人工皮膚を外した者や、顔を布で覆いながら制度の見直しを訴える者もいる。

互いの主張がぶつかり、怒号が上がる場面もあった。それでも多くの人々は、自分と異なる選択をした者と同じ場所に立ち続けた。

真壁は営業を停止した工房の中で、その映像を見ていた。自分の行動を支持する横断幕も映り、《命を救った製作師》《規則に抗った英雄》という文字が画面を横切る。《救世主》と書かれた紙が大きく映ると、真壁は端末の電源を切った。

彼は社会を変えようとしてシロの認可フェイスを外したのではない。あのとき選べたのは、規則を守って待つことと、自分の手で外すことだけだった。今も、自分の判断があらゆる場合に正しかったとは思っていない。

ただ、あの場で外さなければ、シロは呼吸できなかった。腕のなかへ倒れ込んだ体の熱も、認可フェイスの内側に溜まっていた汗も、ようやく空気を吸い込んだ瞬間の顔も覚えている。それ以上の理由を、真壁は誰かへ説明するつもりはなかった。

数日後、シロが父親とともに工房を訪れた。営業停止中のため入口は施錠されていたが、真壁が内側から扉を開けると、シロは素顔のまま頭を下げた。火照っていた頬には血色が戻り、呼吸も落ち着いている。

「助けてくださって、ありがとうございました」
「体調はどうですか」
「もう大丈夫です。来週から仕事にも戻れます」
「無理はしないでください」
「はい」

父親は認可フェイスを着けたまま、真壁へ深く頭を下げた。留め具の周囲には旧式の冷却部品が残り、夏の暑さによる劣化が表面にも現れている。真壁は職人として気になったが、今は点検を行う資格がなかった。

「あなたが外してくれなければ、娘は助からなかったと聞きました」
「規則に反した行為です」
「それでも、私は父親です。まずお礼を言わせてください」
「顔を晒したことについては」
「娘が生きていることより、重いとは思いません」

真壁は作業台の脇へ視線を落とした。資格停止の通知が表示され、その横には透明な審査ケースが置かれている。中では、青年のために作られた認可フェイスが、穏やかな表情のまま引き渡しを待っていた。

「もう、作れないんですか」
「現在は停止処分中です」
「外したことを後悔していますか」

真壁は旧式の冷却装置へ目を向けた。シロが倒れた日の熱が、指先へ戻ってくる。

「製作師としては、してはいけないことでした」
「真壁さん自身は」
「同じ状況になれば、また外すと思います」

シロは小さく頷いた。父親は娘の素顔を見たあと、自分の顎にある留め具へ指を触れたが、外すことはしなかった。真壁も何も勧めず、冷却装置が劣化しているため、暑い日は使用を控えるよう伝えた。

国会では、超個人情報保護法の見直しを求める審議が始まった。当初は緊急時の解除権限を医療従事者以外へ広げる案だけが検討されていたが、議論は次第に、なぜ国が日常的な顔の開示まで一律に禁じるのかという制度の根幹へ及んでいった。

審議は何度も中断し、修正案も作り直された。認可フェイスを禁止すれば、必要とする人々が再び危険に晒される。使用を義務づけたままでは、シロと同じ事故が起こる。顔を見せたい者と、隠したい者のどちらか一方だけを守る法律では、問題は終わらなかった。

その間にも、街の空気は変わり始めた。素顔を晒す人が増える一方、認可フェイスを着け続ける人へ「まだ隠しているのか」と声をかける者も現れた。顔を見せることが正しいという新しい圧力が生まれ、制度の廃止を求めていた人々の間でも意見が割れた。

一年以上の審議を経て、超個人情報保護法は廃止された。顔写真の悪用やなりすまし、本人の同意を得ない顔貌データの収集については、新たな法律で取り締まられることになった。認可フェイスそのものは廃棄されず、希望する者が使える自衛用の補助具として残された。

国による顔の審査はなくなり、形状や使用時間、覆う範囲は本人が決められるようになった。日常的に着ける者もいれば、人混みや職場でだけ使う者、顔の一部だけを覆う者も現れた。

「超個人情報保護法は、本日をもって廃止されます。認可フェイスの使用は、今後、個人の選択に委ねられます」

ニュースキャスターは淡々と読み上げた。街頭映像には、その場で留め具を外す人と、認可フェイスの表面を撫でながら頷く人の両方が映っている。互いの選択を理解できず、距離を取る姿もあった。

認可フェイスも素顔も街に残り、変わったのは、顔を決める者だった。

真壁に対する刑事処分は見送られ、製作師資格の停止も解除された。ただし、国の認可を前提とした資格制度そのものがなくなるため、以前と同じ仕事へ戻るわけではなかった。工房を続けるか、新しい仕事を探すか、真壁はしばらく決められずにいた。

棚には未使用の人工皮膚や加工前の留め具、行政機関の審査を待っていた完成品が残されている。十八年間、真壁は定められた基準へ人の顔を近づける仕事をしてきた。その技術が制度とともに不要になるのか、別の形で誰かに必要とされるのかは、まだ分からなかった。

半年後、店の看板から「認可フェイス製作所」の文字が消え、ただの《真壁工房》になっていた。作業台や加工器具は以前と変わらず並んでいるが、壁に掲げられていた認可基準表と製作師資格証は取り外されている。

棚には顔全体を覆うフェイスのほか、頬や額だけを守る薄い人工皮膚、通気性を高めた半透明のフェイス、表情を隠さず顔貌データだけを遮断する器具も並んでいた。同じ形のものは一つもなく、用途も覆う範囲も使用者によって違っている。

秋の気配が深まった午後、あの青年がふらりと店を訪れた。以前より少し短くなった髪に、自分で選んだらしい服を合わせ、初めて来た日よりも自然な足取りで工房へ入ってくる。顔には何も着けていなかった。

「初デートは、どうでしたか」
「結局、続きませんでした」
「そうですか」
「でも、今も時々連絡は取っています。友達のほうが話しやすかったみたいです」
「それなら、失敗とは限りませんね」
「真壁さんが、そんなことを言うんですね」

青年は少し笑い、透明な審査ケースが置かれていた場所へ目を向けた。ケースは残っているが、中に入っていた認可フェイスはなくなっている。

「俺の顔、もうないんですか」
「廃棄しました」
「そうですか。少し惜しいですね」
「必要だったのですか」
「いえ。あのときの俺より、落ち着いて見えたので」

青年は何も入っていないケースをしばらく眺めた。帰り際、軽く頭を下げる。

「また顔が必要になったら来ます」
「どのような用途ですか」
「まだ決めていません。今度は、必要になってから考えます」
「承知しました」

青年は店を出ていった。自動ドアが閉まると、何もない透明な審査ケースが午後の光を反射した。真壁はそれを片づけず、その場所へ残した。

数日後、シロが父親を伴って工房を訪れた。シロは素顔のまま額にかかる髪を耳へかけ、父親は今も認可フェイスを使っている。以前の重い型ではなく、真壁が新しく設計した通気性の高い軽量モデルだった。

内部には複数の通気口があり、顎の内側には本人だけが操作できる解除機構が付いている。行政機関へ接続する認証装置はなく、外した時刻も使用時間も記録されない。

真壁は父親の顎にある留め具を指し示した。

「ここを二秒押すと、左右の固定が外れます」
「外部からロックされることは」
「ありません。記録も送信されません」
「自分で外しても、警報は鳴らないんですね」
「鳴りません」
「今度は、誰の許可もいらないんですね」

父親は小さく息を吐いた。認可フェイスを外す様子はなかったが、肩から力が抜けている。真壁は内部の通気量を確かめ、留め具の使い方をもう一度説明した。

隣に立つシロは、素顔のまま静かに笑っていた。

「シロさんは、作らなくてよいのですか」
「今は、これでいいです」
「今は」
「ずっと同じ気持ちとは限らないので。隠したくなったら、そのときお願いします」
「承知しました」

父親は娘の返事を聞き、小さく頷いた。二人は同じ扉から外へ出て、同じ速度で夕方の通りを歩いていった。

真壁は新しい軽量モデルの設計記録を保存した。以前の記録には認可番号や審査項目、社会へ不安を与えないための修正箇所が並んでいた。新しい記録にあるのは、使用者本人の希望と、外したいときに外せるという条件だけだった。

夕暮れ時、一人の女性が工房へ入ってきた。左頬から首筋にかけて、赤く引きつった火傷の痕が残っている。入口で足を止め、棚に並ぶ人工皮膚を見回してから、真壁の前まで進んだ。

「予約はしていないんですが」
「ご相談だけでも構いません」
「面接のためのものも作れますか」
「お話を伺ってからになります」

女性は椅子へ座ったが、すぐには話し始めなかった。両手を膝の上で組み、何度か指を握り直している。真壁は作業端末を開かず、女性が自分から話し始めるのを待った。

「来週、仕事の面接があるんです」
「はい」
「全部隠したいわけではないんです。でも、面接の日だけ少し目立たなくしたくて」
「傷の部分を、ということですか」
「顔を見た瞬間に、相手の目が変わることがあるんです。話を聞いてもらう前に終わるのは、少し疲れました」

女性は左頬へ触れようとして、途中で手を止めた。普段は火傷の痕を隠さず生活しており、覆うと余計に見られているような気がするという。それでも面接の日だけは、傷の印象より先に、自分の話を聞いてほしかった。

真壁は女性の顔を見た。火傷の痕は頬から首筋まで続き、顎の近くで色が薄くなっている。以前なら、傷のない側へ合わせて顔全体を整えていただろう。

真壁は測定器へ手を伸ばさず、女性へ尋ねた。

「どこまで隠しますか」
「え?」
「ご自身では、どこまで隠したいと思いますか」
「全部隠したほうが自然ではないんですか」
「それを決めるのは、私ではありません」

女性は真壁と鏡を交互に見た。店へ来れば、傷のない顔へ近づける方法を提案されると思っていたのだろう。真壁は小さな鏡を取り出し、女性の前へ置いた。

「変に見えませんか」
「どの部分を残せば変なのかも、私には決められません」
「自分で決めていいんですか」
「はい。必要な部分だけ、お作りします」

女性は鏡を手に取り、頬へ指を当てながら角度を変えた。傷全体を指先でなぞり、頬から首筋へ視線を移す。真壁は測定器を持たず、返事を待った。

しばらくして、女性は傷の上端を指で示した。

「頬の上だけお願いします」
「この辺りまでですか」
「はい。首の傷は、このままでいいです」
「分かりました」

真壁は初めて測定器を手に取り、女性が指し示した部分だけを採寸した。傷全体の形や顔の左右差は記録せず、覆う範囲と皮膚の色、表情を動かした際の伸縮だけを確かめる。

女性は作業を見ながら、不思議そうに尋ねた。

「もっと測らなくていいんですか」
「必要な部分は終わりました」
「右側と同じ形にはしないんですか」
「そのご希望は伺っていません」
「そうですか」

真壁は人工皮膚を数種類並べ、照明の下だけでなく、窓から入る夕方の光でも色を確認した。傷をすべて消すのではなく、女性が望んだ範囲だけを周囲の肌になじませる。

採寸と調色を終え、頬の一部だけを覆う薄い人工皮膚を作った。顔の骨格や左右のバランスには手を加えず、本人が隠したいと望んだ部分だけを覆う。首筋へ続く火傷の痕は、そのまま残した。

装着を終えると、女性は鏡へ顔を近づけ、頬を動かした。人工皮膚は笑ったときにも不自然な皺を作らず、傷との境目も目立たない。完全に消えたわけではないが、女性が示した頬の上部だけが肌色に覆われていた。

「本当に、言ったところだけなんですね」
「ご希望でしたから」
「全部きれいにしたほうがいいと言われると思っていました」
「全部隠したいのですか」
「いいえ」
「では、このままでよろしいですか」
「はい。これでいいです」

女性は少し笑った。左右でわずかに違う口角を、真壁はもう定規で測ろうとはしなかった。

会計を終えた女性は、入口の前でもう一度鏡を確認した。頬へ指を近づけたが、人工皮膚へ触れる前に手を止め、鏡を鞄へ戻す。入ってきたときよりも、背筋がわずかに伸びていた。

「面接が終わったら、外してもいいんですよね」
「いつ外すかも、ご自身で決めてください」
「また着けたくなったら」
「保管方法を守れば、繰り返し使えます」
「分かりました。ありがとうございます」

女性は工房を出ていった。自動ドアが閉まったあとも、夕方の通りを歩く姿が窓越しに見えている。途中で一度鞄の中の鏡を確かめたが、人工皮膚を外すことも、傷を隠すように俯くこともなかった。

作業台には、使わなかった人工皮膚の素材が残っていた。以前の真壁なら、左右差を整えるためにその素材まで使い切っていたかもしれない。今は密閉容器へ収め、次の客のために静かに蓋を閉めた。

夕暮れの光が店内へ差し込み、棚に並んださまざまな人工皮膚やフェイスを照らしている。顔全体を覆うものもあれば、片方の頬だけを守るもの、表情を隠さず顔貌データだけを遮断するものもあった。

窓の外では、素顔のまま談笑する学生と、真新しい認可フェイスを着けた会社員が肩を並べて歩いていた。会社員が何かを言うと学生が笑い、認可フェイスの口元にも笑顔を示す小さな表示が浮かぶ。二人はそのまま同じ交差点を渡っていった。

どちらが正しい顔なのか、真壁はもう決めなかった。顔を見せる者にも、隠す者にも、それぞれの事情がある。その理由を審査し、正しさを与えることは、もう彼の仕事ではなかった。

やがて自動ドアが静かに開き、新しい客の足音が店内へ響いた。真壁は密閉容器から手を離し、入口に立つ人物へ向き直る。相手が素顔なのか、認可フェイスを着けているのかを確かめるより先に、いつもの声で迎えた。

「いらっしゃいませ。今日は、どのような お顔をご希望ですか?どうぞ、こちらへ」

(おしまい)

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