『ノエシスは愛を知らない』 第9章 任務の外側 #43 イタリアンレストランで
【前回までのあらすじ】
再会したコーヒーショップで蓮見怜は自分が所属している本当の組織のことを明かし、任務の内容を朝倉ユキに説明した。単なる任務だったのかとユキが落胆しかけていると、彼女の髪型が変わったことを怜は指摘した。昼の12時を過ぎ、怜はある場所へユキを伴うことにした。
「ついてきてください」
そう言って、怜は先に歩き出す。
ユキは一瞬だけ迷ったが、バッグを肩に掛けて従うことにした。
黒いジャケットを手にした怜は、ユキを振り返る。
「麻布十番で食事をしましょう」
「ご存知のお店があるんですか」
「少し歩きますが……ご案内します」
六本木から麻布十番に向かう坂を下りると、意外に庶民的な風情の商店街が現れた。
ユキは学生時代から六本木にはたまに来たが、麻布十番まで足を延ばしたのは初めてなので、興味深く商店街を眺めていた。
土地柄なのか、現地で暮らしているらしき外国人の姿が目立つ。
ベビーカーを押しながら、すれ違っていく欧米系の女性。
スマートフォンを見ながら歩く、韓国人観光客と思われるカップル。
その間を、怜は迷いなく進んでいく。
ユキは少し後ろを歩きながら思った。
この人は、このあたりの街に詳しいのだろうか。
どんな店に行くのかの説明はないが、不思議と不安はなかった。
何も決めなくていいことが、少しだけ心地よかった。
やがて怜は、パティオになっている場所に面したレストランの前で足を止めた。
窓から見える照明は少し暗めで、若者向けの店ではなさそうだ。
ランチタイムを迎えた店内は、すでに多くの客で賑わっている。
「ここですか」
ユキが訊くと、怜は短くうなずいた。
「入りましょう」
店内は席が埋まっているように見えたが、怜がスタッフに声を掛けると、奥のソファ席に案内された。
「予約しておきました」
怜は振り返ると、何でもないことのように言った。
ユキは驚いて彼を見上げた。
「いつの間に?」
「先ほど、電話をしました」
さっきの電話は業務連絡ではなく、店の予約だったのかとユキは思った。
食事をするために予約をしてくれた心遣いが嬉しかった。
「満席で入れない事態を避けたかったので」
ユキは小さく笑った。
「用意がいいんですね」
涼しげな顔で怜は答えた。
「必要な確認だと思います」
やっぱり、この人は少し変わっている。
ユキはそう思いながら、促されてソファ側の奥の席に座った。
怜は当たり前のように手前の椅子を引く。
向かい合って座ると、怜はメニューをユキの方へ向けた。
「苦手なものはありますか」
「特には。蓮見さんは?」
「ありません」
「即答ですね」
「食事に関して、困ることはあまりないので」
メニューを開きながら、ユキは店内を見回した。
アールデコ調のインテリアが洗練されているが、メニューはカジュアル寄りのイタリアンで気取りすぎてはいない。
隣の席では、40歳前後と思われるカップルがホール係にオーダーしていた。
怜は、この店を知っている。
彼の動きには初めて来た人間の迷いがなかった。
「何度か来たことがあるんですか」
ユキが訊くと、怜はふと視線を外した。
「以前に数回」
それ以上は言わなかった。
ユキも、それ以上は訊かなかった。
そのとき、女性のホール係が水を運んできた。
30代後半と思われる綺麗な人だ。
まとめた髪も、白いシャツもきちんとしていて、接客の動作には慣れがあった。
その女性はテーブルへグラスを置きながら、怜の顔を見た。
一瞬だけ、驚いたように見えた。
そしてすぐ、薄い笑みを浮かべた。
「お久し振りです」
ホール係は言った。声は丁寧だった。
怜の方も気付いたらしい。
「以前、来店した時に……覚えていたんですか」
「もちろんです」
その女性は微笑んだ。
彼女の視線が一瞬だけ、ユキへ移る。
ほんの一瞬だった。
けれどユキには、その意味が分かった。
この人は、怜を覚えている。
そして以前ここへ来た時、怜は一人ではなかった。
「どうぞ、ごゆっくり」
女性のホール係は、それ以上何も言わずに離れていった。
怜はテーブルに肘をつき、何かを考えているようだった。
表情に大きな変化は見られない。
ユキはメニューへ視線を落とした。
文字を追いながら、さっきの女性の笑みを思い出す。
悪意ではない。
ただ、少しだけ意地悪だった。
多分、女にしか分からない程度の。

「朝倉さん」
呼ばれて、ユキは顔を上げた。
「決まりましたか?」
「まだです」
「何か気になるものが?」
ユキは少し考えてから、メニューを閉じた。
「蓮見さんが以前食べたものを教えてください」
怜は、わずかに首を傾げた。
「以前?」
「何度か来たことがあるんですよね」
「はい」
「そのとき、何を食べたんですか」
ユキの質問の意味を測るように、怜はしばらく黙った。
「たしか、ボロネーゼだったと思います」
「誰と?」
言ってから、ユキは少し後悔した。
訊くつもりではなかった。
怜は、ユキをじっと見つめた。
「仕事で知り合った女性です」
余計なことを怜に語らせないよう、ユキは言った。
「……私、ボロネーゼにします」
少しの間を置いたあと、怜は追随した。
「では僕も、同じものにします」
自分の様子が変わったことに、怜は気付いただろうか。
彼の表情からは窺えなかった。
「シーザーサラダは好きですか? 一緒に食べましょう」
何もなかったような素振りで、怜はホール係を呼んだ。
テーブルに来たのは先程とは違う男性で、ユキは内心ホッとした。
水の入ったカットグラスに、天井の光が揺れていた。
主な登場人物
蓮見怜 / はすみ れい
国際機関であるORd東京連絡局に所属するエリート連絡官。六本木のコーヒーショップで再会したユキに真実を打ち明けて任務を遂行するが、昼食をとるためにユキを麻布十番のレストランに連れていく。
朝倉ユキ / あさくら ゆき
三軒茶屋のアパートで暮らしているフリーランスのUXライター/AI会話デザイナー。再会した蓮見怜から彼の正体を聞かされ、任務の内容を説明されるが、その流れで食事を共にすることになる。
© 2026 Project MARIA / ノエシスは愛を知らない
