20年、給料が上がらなかった。それでも私が会社を辞めなかった理由【前編】
今年の6月20日、30年勤めた会社を辞めました。55歳のときです。
こう書くと、思い切った決断をした人に見えるかもしれません。でも実際のところ、勇気があったわけではありません。むしろ、辞めるまでに何年もかかりました。
私はいま56歳です。7月に誕生日を迎えました。
そして正直に書いておくと、まだフリーランスとして稼げているわけではありません。いまはハローワークに通っています。独立した人というより、まだ「辞めたばかりの人」です。
この記事では、辞めるまでに何を考えていたのかを書きます。うまくいった話ではありません。給料が上がらないまま20年が過ぎて、それでも辞められずにいた人間が、どこで気持ちを固めたのか。その過程の記録です。
同じように「このままでいいのか」と思いながら、月曜の朝を迎えている方に届けばと思っています。
20年、給料が上がらなかった
最初に、いちばん現実的な話をします。
私が課長になったのは2004年です。それから20年近く、給料はほとんど上がりませんでした。
役職が変わらなかったわけではありません。商品企画のリーダーをやり、課長になり、プロデューサーという肩書きもいただきました。東京に新しい開発組織を立ち上げたこともあります。仕事の中身は変わり続けていました。
それでも、給与明細の数字はほとんど動かなかった。
理由ははっきりしています。会社が「ジョブランク制度」を採用していたからです。ランクごとに基本給が決まる仕組みで、ランクが上がらなければ、基本給も動きません。
若いうちは、このランクは上がりやすいんです。経験を積めば、順に上がっていく。
ところが40代を過ぎると、話が変わります。ランクを上げるには役職が上がる必要があり、その席の数は限られている。つまり、どれだけ成果を出しても、席が空かなければ基本給は変わらないという構造です。
私は2004年に課長になり、そこで止まりました。

それでも辞めなかったのは、もらえていたから
ここは正直に書きます。
上がらなかったとはいえ、私の年収は、同年代の平均よりは高いほうでした。
遊技機の業界は、当時それなりに景気のいい世界でした。同じ年齢の友人と比べて、明らかに多くもらっていた時期があります。だから「上がらないな」と思いながらも、辞める理由にはならなかった。
不満はある。でも、生活は成り立っている。むしろ恵まれているほうだ。
——この状態が、いちばん動けません。
つらくて限界なら、人は動きます。でも「悪くはない」と思えてしまうと、来年も同じ場所にいることになる。私はそれを20年続けました。
気づいたときには、留まる理由がなくなっていた
変化は、ある日突然きたわけではありません。
遊技機メーカーのボーナスは、その年の成績で決まります。台が売れた年は多く出て、売れなかった年は少ない。年によって大きく上下します。
以前は、当たる年のほうが多かった。だから多少の波はあっても、ならせば十分な金額になっていました。
それが、少しずつ変わっていきます。
業界そのものが縮んでいく中で、売れない年が増えていきました。ボーナスが毎年ちょっとずつ削られたのではありません。儲かる年の割合が減ったのです。
いい年もあります。だから「今年はダメだったけど、来年は」と思える。その繰り返しのうちに、平均するともらえる額が以前よりずっと少なくなっていました。
そうやって50代になったころ、気がつきました。
もう、そんなに高い年収ではなくなっていた。
基本給はランクが上がらないので変わりません。そこにボーナスの目減りが重なっていきました。
そして、直近の物価高です。
総務省の消費者物価指数によると、2025年の年平均は前年比3.2%の上昇。中でも食料は6.8%も上がっています(2025年平均・総務省統計局)。
数字を見なくても、レジで実感していました。同じものを買っているのに、支払う額が増えていく。
収入は下がり、支出は上がる。
両側から挟まれている感覚がありました。
高い給料は、私がこの会社に留まる理由の大きな部分でした。その理由が、静かに消えていたのです。

これは私が特別だったという話ではないと思います。業界が縮んでいく中にいれば、誰にでも起こることです。
ただ私の場合、留まる理由が消えたことに気づくまで、時間がかかりすぎました。
好きだったはずのものが、遠ざかっていた
お金の話ばかり書いてきましたが、私がこの会社にいた理由は、それだけではありません。
私はパチンコ・パチスロが好きでした。
自分が企画した台がホールに並び、そこに座った人が笑っている。当たりを引いて、身を乗り出している。その姿を見に行くのが、この仕事のいちばんのやりがいでした。
つくったものが目の前で人を楽しませている。これ以上分かりやすい手応えはありません。

ところが、ここ数年で変わってきました。
遊ぶのに必要なお金が、遊びの範疇を超えてきたのです。以前と同じ感覚で座ると、あっという間に飲まれていく。
私自身、店に行く回数が目に見えて減りました。つくる側の人間が、自分から足を運ばなくなっていったのです。
そして、AIに出会いました。
気がつけば、休みの日にパチンコへ行くことはほとんどなくなっていました。代わりに、家でAIを触っている。新しいツールを試して、うまく動いたときのほうが、よほど面白い。
好きだったものより、楽しいものが見つかってしまった。
これは会社にとっても、自分にとっても、正直に受け止めるべきことだと思いました。
つくる側が心から面白いと思えなくなった商品を、これから何年もつくり続けられるのか。
給料の話より、こちらのほうが決定的だったかもしれません。
もうひとつ、動けなかった理由
お金の話をもう少し続けます。ここは、同じ年代の方には分かってもらえるかもしれません。
子どもが2人います。学費がいちばんかかる時期を、ずっと走っていました。
辞めるという選択肢は、頭にはありました。でも、いま自分が抜けたらどうなるか——そう考えると、口に出せませんでした。
会社を辞めるかどうかは、自分の気持ちだけで決められるものではありません。守るものがある人ほど、動けなくなります。

それが変わったのは、上の子が大学4年になった年でした。
ひとりぶんの学費に、終わりが見えたのです。
下の子はこれからです。だから完全に自由になったわけではありません。それでも、いちばん重かった時期は越えたという感覚がありました。
家計の山が見えたこと。これが、実際に背中を押しました。
きれいな話ではないかもしれません。でも私の場合、決断を可能にしたのは志ではなく、そろばんを弾いた結果でした。
それでも、怖さは残っていた
理由が消えたからといって、すぐに辞められたわけではありません。
仕事が無くなる不安がありました。30年同じ会社にいた人間が、外に出て何ができるのか。自分に値札がつくのか。考えるほど、足が止まりました。
「いつかは」と思いながら、その「いつか」を毎年先送りにしていました。
いま副業を始めようとしている方の中にも、同じ状態の人がいるのではないでしょうか。興味はある。調べてもいる。でも最初の一歩が出ない。
私はその状態を、長いあいだ続けていました。
それでも、私は会社を辞めました
ここまで、動けなかった理由ばかり書いてきました。
高い給料。学費。仕事が無くなる不安。どれも本当のことです。20年、私はこの中にいました。
それでも今年の6月、私は会社を辞めました。
背中を押したのは、お金の計算だけではありませんでした。
後編では、そこを書きます。30年つくってきたものへの気持ちと、思いがけない異動と、1996年のある記憶についてです。

後編に続きます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
うまくいった後に振り返る話ではなく、いま通っている最中のことを書いています。
たぶん、しばらくこんな感じの記事が続きます。
「読んでよかった」と少しでも思ってもらえたら、スキを押してもらえると嬉しいです。
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まだ何者でもない人間の記録ですが、よかったらお付き合いください。
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